「イギリス人ウォレス(19)」(2021年05月05日)

その論文をダーウィンに送って、ロンドンの学術界に発表してもらおうとウォレスは考え
たのである。テルナーテからシンガポール経由でロンドンに送られたその論文にダーウィ
ンは強いショックを受けたという話がある。ダーウィンと友人たちは生物進化の理論につ
いて、ウォレスが看破したものと同じような説を立てていたのだが、ウォレスの論文はそ
の内容の明快さにおいて、ダーウィンたちの一歩先を歩んでいたというコメントもネット
上に見られる。

1858年7月1日に行われたロンドンのリンネソサエティ会合でダーウィンはウォレス
からの依頼を果たした。それから15カ月ほど後に、ダーウィンの著作「種の起源」がヨ
ーロッパの学術界を震撼させることになる。


パプアへの旅からテルナーテに戻った後の1858年9月に、ウォレスはまたジャイロロ
を訪れた。この二度目の訪問では、北の半島部のジャイロロ村へ行った。そこは80年く
らい昔にテルナーテのスルタンが住んでいた土地で、オランダ政庁がスルタンに現在のテ
ルナーテの街に移るよう要請した結果、失われた都になった。

そこには鳥や虫も少なく、成果が期待できなかったためにウォレスはもっと北にあるサフ
Sahu村へ移った。海岸沿いに12マイルほど北にある場所だ。ウォレスが著書の中でその
地名をSahoeと綴っているのは、オランダ語綴りをそのまま書いたからではあるまいか。

サフにはムスリムとアルフロスがたくさん住んでいて、郊外一円に住んでいるアルフロス
が毎日食べ物を売りにサフ村にやってくる。またサフ村の富裕層(たいてい華人やテルナ
ーテ人商人)がかれらの労働力を買うため、それを目的にして来る者も多い。ウォレスは
そこでアルフロスの人種的特徴をじっくり観察した。かれらはムラユ系よりもパプア系の
特徴を多分に持っている人種だった。身体的特徴に加えて、振舞いもムラユ系のような控
えめさがなく、声も傍若無人のうるささだった。

ウォレスはパプア島の鳥の頭の鼻先の北にあるワイゲオWaigeo島から戻った後の1860
年にまたジャイロロ島を訪れ、今度は島の南部へ調査に行ってアルフロスの姿がほとんど
見られないことを知った。そこは完璧にムラユ系種族の舞台であり、アルフロスは北部に
しか住んでいないのである。

ウォレスの思考がたどりついたのは、この島はムラユ系種族の土地であり、パプア系はも
っと後の時代にやってきて島の北側に住み着いたのではないかという推論だった。元々、
そこはパプア系種族の領域になっていなかったということだ。


ドディンガからテルナーテに戻ってから、ウォレスはいよいよパプア本島に向かう準備に
取り掛かった。原住民とのバーターに使う品物を仕入れ、また助手を4人に増やした。今
やウォレスの懐刀になったアリが助手仲間のリーダーになる。助手とは言っても、必要に
応じて何でもしなければならないサーバントだ。

1958年3月25日、ダウフェンボーデン氏所有のスクーナー、へスターヘレナ号がテ
ルナーテを出帆した。パプア島北岸沿いに通商を行うのである。4月11日朝、,この船
はドレDore湾の外島マンシナムMansinam島沖に停泊した。パプア本島側のドレとマンシナ
ム島は海を隔てて3キロほどの距離にあり、マンシナム自体は全長4キロほどの細長い島
である。ウォレスがDoreyと綴っているドレはマノクワリManokwariの旧名だ。

マンシナム島にはふたりのドイツ人宣教師が住んでパプア人へのキリスト教の布教活動を
行っている。そのひとり、オットー師はすぐにへスターヘレナ号にやってきて、ウォレス
を朝食に招いた。

パプアにおける福音伝道の事始めが1855年2月5日にマンシナムに上陸したオットー
師とガイスラー師のふたりの宣教師なのである。今マンシナム島はパプアのキリスト教伝
道発端の地としていくつかの施設が作られている。オランダ政庁がそこに蒸気艦船のため
の石炭デポを設けていたので、宣教師は最初そのデポに建てられた水夫用の粗末な小屋を
住居にした。[ 続く ]