「マラッカ海峡(6)」(2021年05月17日)

ジャワ・マカッサル・マルクを目指す西方からの船の大半が、スマトラ島西岸を南下して
スンダ海峡からジャワ海に入る航路を取るようになると、北スマトラのアチェと西ジャワ
のバンテンがムラカに取って代わる新興港湾都市として勃興しはじめる。

ポルトガル自身はマラッカ海峡全域の保全のためにパサイやピディを懐柔する動きに出た。
ムスリム商船がムラカまでやって来ず、海峡入口のラムリ・パサイ・ピディで取引して帰
って行くのを放置することはできない。ポルトガル軍船は港の沖を封鎖して、やってくる
商船にムラカへ行けと命じた。しかしムスリム商船がポルトガル領マラッカへ行けば、過
酷な待遇が待っているだけだ。

ポルトガルはパサイやピディを武力攻撃して直轄地にする方法を執らず、ポルトガルの意
のままに動く王子をスルタンにする形で傀儡化を行おうとした。ポルトガルがいかに人的
資源の余裕を欠いていたかをわれわれはそこに見ることになる。パサイはその方針が成功
したものの、ピディはその段階に達する前にアチェが軍事侵略を行って征服した。アチェ
にとっても、ピディやパサイのポルトガル化は自己の存立を脅かすリスク以外の何もので
もなかったのである。攻撃は最良の防御という哲理はここにも存在していた。

ともあれ、ポルトガルがどんな形でラムリ・パサイ・ピディを自己陣営に引き込もうとし
ても、それら諸港の命運はすでに決まっていたのである。商船はアチェの西の海をまっす
ぐ南下して行ったため、ラムリ・パサイ・ピディは衰亡の一途をたどるしかなかった。マ
ラッカのポルトガルにとってマラッカ海峡の完全掌握は、何をすることもなくその掌中に
転がり込んで来る運命だったように見える。


ポルトガル時代のマラッカ海峡は、通商交易の場よりも戦争の場に様相を変えた。ムラカ
を強奪して居座ったポルトガル人を皆殺しにしようとして、近隣のマラユ諸王国、北スマ
トラのアチェ、ジャワ島北岸の諸イスラム港湾都市国家から、入れ替わり立ち代わり軍勢
が押し寄せて来た。

ヨーロッパの小国ポルトガルが地球の反対側に得たマラッカから、スパイスをはじめとす
るさまざまなアジアの高価な物産をリスボンまで届けさせるために、かれらが自国の船を
使う以外の方法は存在しなかった。

帆船の時代に船の航海は追い風を受ける時期が最大の効率を得ることになる。11月から
4月までの東風モンスーンの時期がそれだ。商船団が積荷を満載してリスボンへの長い航
海に出る時、船団を護送する軍船の随行がないでは済まされない。マラッカ要塞の防御に
必要最小限の軍船を残して大船団が出港して行ったあと、マラッカを陥落させようとアジ
アの軍勢が押し寄せて来るのはほとんど年中行事になっていた。

その手薄の期間にマラッカ要塞は完全に包囲され、時にはあわや陥落というところまで行
ったときに救援のポルトガル軍船が出現してアジア人の軍船を追い散らしたという奇跡の
ようなことも何度か起こっている。


そのポルトガル領マラッカを陥落させたのが同じヨーロッパの小国オランダのVOCだっ
たというのは相当に皮肉な歴史の流れだろう。オランダは同君連合下のスペイン・ポルト
ガルとの間で独立をからめた戦争状態に入っていた。だからこそスペインはオランダ船の
リスボン入港を禁止し、リスボンからヨーロッパ域内へのアジア物産運送業からオランダ
人を閉め出そうとしたのである。オランダのアジア進出、VOC会社結成の原因がそこに
あった。

オランダ人がアジアにあるポルトガルの全権益を奪い取ろうと武力を使ったのは、VOC
にとっての通商の利よりも国家存立の問題という建前論の方が大きい比重を占めていたに
違いあるまい。アジアにいるポルトガル人はオランダ人のその方針をオランダ人海賊論に
して言い広めた。[ 続く ]