「イギリス人ウォレス(31)」(2021年05月25日)

1859年10月29日午前3時、セラムに向かう船がアンボンを出た。数日前に出港を
予定していたファン・デル・ベック船長は、やって来ない乗組員を探し回って、やっと全
員を集めた。これで出発できると思いきや、今度はウォレスの助手がふたり姿を消すとい
う難儀が続いた。

ひとりは別れの盃で酩酊していたのが見つかったが、もうひとりは湾の向こう側へ行って
しまったという話で、連れて行くのを諦めるしか仕方なかった。出発した後、船はアンボ
ン東側の村に立ち寄って宣教師の住宅建設用の木材を積み込み、三日目にセラム島のハト
スアHatosuaに到着した。そこには船長の所有する農園があり、ウォレスはそこに滞在し
て観察と標本採集を行うことにしていた。

広さが20エーカーあるその農園は主にカカオとタバコが栽培されていて、作業者が住ん
でいる小屋がある一方、屋根付きのタバコ乾燥場もあって、ウォレスはその一画を使わせ
てもらうことになった。テーブル・イス・ベッドなどを配置して数週間滞在する構えを作
ったものの、数日で期待外れであったことが判明した。

甲虫はたくさんいるが、バラエティに乏しく、しかも既にアンボンで見ている種ばかりで
あり、近くの森も踏み分け道は皆無で、おまけに鳥も蝶もあまりいない雰囲気だ。ここに
長居をしても、セラム島のことは分からないと考えたウォレスは場所を変えることを計画
した。

知り合ったポリグロットのファン・デル・ベック船長は物知りで愉しい男であり、かれと
別れるのは残念だったが、採集と観察のほうが重要なのである。サパルアSaparuaの副レ
シデンに手紙を送り、移動のためのボートの手配を依頼したところ、乗組員が20人もい
るかなり大型のボートがやってきたので、夕方エルピプティElpiputiに向けて出発した。
エルピプティは現在Elpaputihという県名になっている。

エルピプティで数日滞在するつもりだったが、二日かけて着いてみると付近に処女林もな
く、ここも時間の無駄になりそうだったので、ウォレスは移動を続けることにした。

更に12マイル進むと、カカオ農園の建設が真っ最中のアワイヤAwaiya村があった。多分、
現在Awayaという名称の村がそれだろう。ヨーロッパ人農園マネージャー氏が付き添って
くれて村の首長に会いに行き、ウォレスが滞在するための家を世話してもらった。ボート
と20人の男たちはそこで解放した。


アワイヤ村は最近できた村で、住民は内陸部から移り住んだ土着民がほとんどを占めてい
る。セラム島の海岸沿いの村々は、内陸部の土着民を教化するためにアクセスの便の良い
場所に引っ越させる受け皿として植民地政庁が作っている。同時にそこに農園を設けて移
住した土着民の仕事場を用意し、生産物は政庁が集めて経済資源にするという、実に巧み
な好循環システムが行われている。

アワイヤ村には学校があり、アンボン人プリブミが校長で、毎朝たくさんの生徒がやって
くる。学校は宣教団の布教活動の一環として営まれていて、原住民のキリスト教化が図ら
れている。大きい村にはたいてい、宣教団の人間が駐在している。しかし外から見た限り
では、キリスト教化がなされた村と、未教化村の違いはあまり目立たない。セラム島北部
や東部沿岸の村々はムスリムであり、南西部がキリスト教徒のエリアになっている。

アワイヤ村の住民は褐色の肌に縮れ毛で体格の良いパプア系のひとびとが大半で、裸に近
い姿で暮らしている。キリスト教化した原住民は服を着るようになるので、それが目印に
なっているようだ。

ファン・デル・ベック船長はキリスト教徒村の住民を、救いがたい怠け者である上に、泥
棒で嘘つきで酔っ払いだとこきおろした。アンボン在住の友人やヨーロッパ人居住者ある
いは商人たちも、まったく同じ批判をした。サーバントに雇うのなら、たとえ前科者であ
ってもイスラム教徒の方がましなのだそうだ。[ 続く ]