「インドネシア語とマレーシア語(1)」(2021年05月27日) ムラユ族の言語であるムラユ語がインドネシア共和国統一国家の国語になった。それを定 めたのはインドネシア共和国(45年)憲法であり、憲法に記されたこの内容を決議した のが第二回青年会議における青年の誓いであった。 2018年10月30日付けコンパス紙の記事に、ムラユ語がインドネシア語になるまで のクロノロジーが記されている。それによれば、次のような歴史がムラユ語をムラユ族の 母語からもっと大規模な複数種族の集合体である国家の共通語に押し上げた。それと同時 にムラユ語は、元々のムラユ族のテリトリーで別の国家になったひとびとの国語になり、 あるいは母語にもなるという、東南アジア域内でたいへん有力な言語の地位を獲得したの である。 ◎西暦紀元7〜14世紀 古代ムラユ語はスリウィジャヤ王国の興隆に伴って黄金期を謳歌した。東南アジアの島嶼 部や大陸沿岸部でムラユ語は通商と仏教布教の共通語として使われた。 ◎15世紀 ペルシャ・グジャラート・アラブの商人たちがムラユ語との接触を深める。それが語彙や 言語表現の豊かさをムラユ語にもたらした。 ◎西暦1700〜1850年 1701年にイギリス人探検家トーマス・バウリーThomas Bowreyは英語=マレー語=英 語辞典を出版した。そのDictionary English-Malayo, Malayo-Englishの中でバウリーは、 マレー語はジャワ・スマトラ・ボルネオ・マカッサル・バリ・スンバワ・スラヤル・ブト ン・ブル・セラム・マルクその他の島々で使われており、それぞれの島では別の母語が存 在するものの、各地の商港では普遍的商業言語になっている、と書いた。 オランダ植民地政庁は契約書・文書通信・民事行政や通達にムラユ語を使った。 ◎1850〜1900年 蘭領東インドで種々のムラユ語新聞が発行された。 ハジ・アグッ・サリムH Agus Salim、スカルノSoekarno、モハンマッ・ハッタM Hatta、 シャッリルSjahrir、ナツィルM Natsirら民族運動活動家たちはムラユ語で論説を書き、 民衆への演説を行った。 ◎1908年 オランダ植民地政庁が、後のバライプスタカBalai Pustakaになる植民地教育と民衆図書 のための委員会Commissie voor de Inlandsche School en Volkslectuurを設立。191 7年にできたバライプスタカはムラユ語の出版物を続々と世に送り出した。 ◎1916年 8月28日にオランダのデンハーグで開かれた植民地教育会議でスワンディ・スルヤニン ラRM Soewardi Soerjaningratが、共通語としてムラユ語を使うことを提案した。スワン ディは後にキ・ハジャル・デワントロKi Hajar Dewantaraに改名している。 ◎1926年 2月に新聞ヒンディアバルHindia Baroeの記者で青年会議の検討チームメンバーにもなっ ていたモハンマッ・タブラニMohammad Tabrani Soerjowitjitroが土着民にとっての共通 語としてムラユ語の使用を提案した。4月30日に開かれた第一回青年会議でモハマッ・ ヤミンMohammad Yaminは土着諸種族の統一言語として、タブラニが提案したムラユ語の使 用を正式に提案した。 タブラニはその共通語をムラユ語と呼ばずインドネシア語と呼ぶように提案した。非ムラ ユ諸種族がムラユ語を強制されるのは不愉快だろうが、これから作る国の名称を先取りす れば、感情的なしこりは出現しないだろう。 ◎1928年 10月28日に開かれた第二回青年会議はムラユ語を統一言語にすることを決議した。統 一言語としてのムラユ語は、公式名称をインドネシア語とすることが決定された。 [ 続く ]