「イギリス人ウォレス(33)」(2021年05月28日)

19日の朝は午前6時に出発した。前日と同じような行程を3時間ほど続け、その間に三
十数回、膝までくらいの深さの小川を渡った。朝食の後、また前進を続けて、山越えの長
い道を通過した。山は海抜1千5百フィートくらいの高さだ。その急な斜面を下ったとこ
ろに小川があり、そこが島の中心部だった。ウォレスはそこでニ〜三日、採集活動を行う
ことにした。

男たちはウォレスのために寝屋を作り、かれら自身は前の旅人が作った寝屋を使った。ウ
ォレスはそこに二日半いて、全部で60匹近い蝶を採集することができた。ウォレスはひ
と月ほど、このような山の奥深くに滞在したいと思ったものの、山奥には村がないため諦
めざるをえない。もしも人里があれば、クリスマスを終えてからかれはまたやってきたこ
とだろう。

6日間の旅を終えてマカリキに戻ったウォレスは、その足でアワイヤに向けてボートで出
発した。ところが海上で嵐に見舞われ、その日夕方遅くずぶ濡れの状態でアワイヤに帰着
することになった。

セラム島に滞在中、ウォレスはひっきりなしに超小型のダニに噛まれて、頭から足まで炎
症だらけになった。目に見えないのだから、蚊や蟻などの害虫より始末に悪い。アンボン
に戻った後にそれが重篤化して、二カ月間、外を出歩くことができなくなった。


1860年2月24日、体調を回復させたウォレスは二度目のセラム島探査に赴いた。マ
ルク行政長官から全村落首長に宛てたウォレスへの協力要請状をもらって、ウォレスはま
ずアマハイAmahaiにボートで向かった。アワイヤが現在のエルパプティ湾のほぼ入口に位
置しているとするなら、マカリキは湾の一番奥深く、アマハイはマカリキからずっと南方
の湾の端にあり、アワイヤと湾をはさんで対面している。

ウォレスはアマハイに到着して首長に舟の手配を頼んだ。このような状況に直面するとあ
れやこれや理由をつけてすぐにできないことを言いだすのが普通の展開であるというのに、
アマハイの首長は稀に見る傑物だった。なんと即座に舟の手配を命じ、必要な人数を集め
てその夜のうちにウォレスの荷物を積み込ませ、マストを立てて帆を張らせ、いつでも出
発できる手はずを整えた。プリブミ首長の中にこのような人物がいることに、ウォレスは
感銘を受けた。

舟は翌朝5時に出発し、東方に向けてセラム島南岸を進む。途中セパSepaに立ち寄ってか
らタミランTamilanで夜を過ごした。翌日昼ごろ、ハヤHayaに到着。アマハイから乗って
来た舟はここまでしか行けないので、ハヤでボートを手配しなければならないのだが、十
分な大きさの舟がない。

だったらハヤにあるボートを2隻使えば十分に事足りるわけだが、ハヤのラジャは4隻使
うよう主張した。多分、ラジャの配下にある四つの村のふたつだけに義務を与えるのが難
しかったのだろうとウォレスは解釈した。アマハイを出てから上陸した村々はすべてムス
リムの村だが、どの村でも酒を分けてくれと求められた。本当に名前だけのイスラム教だ
とウォレスは書いている。

翌日、ハヤを出てトゥルティTeluti湾に入った。海上からセラム島中央山系の姿がよく見
える。総勢60人が操る4隻のボートは速い太鼓のビートに合わせて元気よく櫂漕ぎを続
ける。太鼓の喧噪と漕ぎ手の唄、そして叫び声。4隻の船団は穏やかな海上を順調に走っ
た。

トゥルティに到着すると、地元のオランカヤとラジャの部下が一行を出迎えた。ウォレス
が数日間滞在するための宿舎が用意されていて、そこで歓迎会が開かれた。しかし鳥に関
する情報を地元民に尋ねてみると、珍しい鳥の情報はない。ラジャがトゥルティに珍しい
鳥がいるという話をしたのでやってきたが、どうやら長居する価値のない場所のようだと
ウォレスは思った。[ 続く ]