「イギリス人ウォレス(34)」(2021年05月31日)

トゥルティ村は人口が多いが、乱雑で汚い。サゴの樹は普通、低地の湿地帯で成育するも
のなのに、ここでは珍しくサゴ林が山の斜面にできていた。ウォレスが細かく観察したと
ころ、多雨のために斜面にできた湿地にサゴ林があって、特殊な要因がその現象を起こし
ているのでないことが判った。

トゥルティの原住民はほんの狭い土地にトウモロコシやサツマイモを植える程度で、大し
た栽培活動を行わず、サゴを主食にして生きている。それがここの地における昆虫類のバ
ラエティを狭いものにしている。

村のオランカヤはきれいな服を着、上等のランプや高価なヨーロッパ製調度品を持ってい
るものの、日々の食生活は他の貧困者と同様のサゴと魚を食べているだけだ。


ウォレスはトゥルティに三日逗留してから、ハヤから来た時と同じサイズのボート2隻で
トボToboに向けて3月6日に出発した。トボにしばらく滞在するつもりだったので、その
間中ボートをずっと使わせてほしいと依頼し、トゥルティ側は強い難色を示したものの、
最終的になんとか了承させることができた。

3月7日夕方、バトウアサBatuasaに到着。ここからトボのラジャの領地が始まる。トボ
村そしてオソンOsong村で漕ぎ手を増やし、オソンからはトボのラジャまでが乗り込んで
一緒にキサラウッKisalautに進んだ。ラジャはキサラウッに家を持っていて、ウォレスに
そこを使うよう勧めた。キサラウッで三日過ごしたウォレスは、そこに長居しても意味が
ないのを確信して、ゴラムGoram島へ行きたいとラジャに要請した。そのために、プラフ
と乗組員を貸してほしい、と。ウォレスがGoramと書いた島の名称は、原住民がGoromと呼
んでいたものであり、マジャパヒッ時代のナガラクルタガマにはGurunという名前で登場
する。インドネシア人にとって母音の音がいかに融通無碍であるかを端的に示す一例だろ
う。

ウォレスの要請に対してラジャは手元にある一隻を使わせようとせず、数マイル離れた場
所にあるものを取り寄せようとした。数日かけてやっと届いたそのプラフは小さすぎて、
ウォレスの荷物を全部載せることができない。ラジャは即座にもう一隻用意せよと命じ、
三日間で持って来させるとウォレスに約束したが、三日が六日になっても影も形もない。
最終的に隣村のプラフを使うことになった。それなら、最初からそうすればすぐに出発で
きたではないか。そして舟の再手入れ作業が行われ、更に舟の持ち主とラジャの用人の間
の激しい口喧嘩が伴われて、十日以上が無駄に費やされた。ウォレスはその間、何ひとつ
仕事をすることができなかった。鳥も昆虫も普通のものばかりだったから、珍しい種の個
体をたくさん集めて商品を増やすことすら不可能だったのだろう。

4月4日、ウォレスは終にキサラウッを後にした。乗った舟は積載量4トンの小さい舟で
あり、ウォレスの大量の荷物を積み込むとき、寝るのと料理のためのスペースを残してお
かねばならず、たいへんな苦労をした。舟の乗組員は4人きりで、かれらは船首と船尾に
設けた3x4フィートの草ぶきのスペースを交代で使うだけ。この舟でバンダ海北部を航
行しようと言うのである。

4月5日、舟はセラム島東端を通過し、さらにまっすぐ東方に向けてゴロンGorong群島最
大のマナウォカManawoka島を目指した。現代インドネシアでマナウォカと呼ばれている島
をウォレスはマノウォルコManowolkoと書いている。ちなみに、ゴロン群島はマナウォカ
島・ゴロムGorom島・パンジャンPanjang島および周辺の小島で構成されているというイン
ドネシア語の解説がある一方で、少々ややこしいことに、Gorom島をGorong島と書いてい
るインドネシア語記事もあり、本著では群島名をゴロン、単独の島名をゴロムと使い分け
ておくことにする。[ 続く ]