「イギリス人ウォレス(37)」(2021年06月04日)

原住民の食べ物はココナツとサツマイモ、時たまのサゴケーキ、そして加熱して油を採っ
たあとの残りかすなどがメインであり、その貧しく偏った食事がしばしば発疹や壊血病を
招き、また子供たちの顔にただれを起こさせて醜いものにしている。

住民の居住場所は島の高所に設けられており、狭く急な斜面や階段を登って行く。生活環
境は腐った殻や油粕などの廃棄物に満ちていて、住居も暗く、油っぽく、きわめて不潔だ。
生活状態も不潔で野蛮であり、衣服も洗濯しないぼろ布を身に着けているだけで、洗濯す
るということは思考の中に置かれていないようだ。

そんな惨めな日常生活をしているにもかかわらず、かれらは金持ちであり、生活必需品ば
かりか贅沢品すら購入できる原資と方法を持っている。女たちはみんな重い黄金のイヤリ
ングを着け、どの村もブロンズの小型砲を十数門持ち、村の首長はウォレスに会うときに
花柄のサテンと絹のローブを着用した。だが首長のような上流層のひとびとですら、住居
は一般庶民とたいして違わず、また食べ物にも差がない。各村に鶏はたくさんいて、ウォ
レスは鶏卵をプレゼントされた。しかし村人たちは鶏や卵を自らの食用にせず、ペットや
商品として扱っている。


南東風が毎日吹くようになったので、ウォレスは4月25日にマナウォカに戻った。そし
て翌日、ゴロム島の首府オンドルOndorに移動して、そこにひと月滞在した。ウォレスは
ラジャの家を間借りした。

ゴロム島住民は商人である。かれらは毎年、タニンバルTanimbar、ケイ、アルの島々やパ
プア島西部のウタナタOetanataからサルワティSalwattyまでの北海岸一帯、ワイゲオ島、
ミソオル島(現代インドネシアの綴りはMisoolで、ウォレスはオランダ式のMysolと書い
ている)などを訪れる。そして西方へはティドーレ・テルナーテ・バンダ・アンボンまで
航海ネットワークをつないで商品の流通販売に従事している。

ゴロム商人が頼りにするプラフは船作りの達人、ケイ島民が作ったものばかりであり、そ
の造形美と制作技術の巧みさにかけて他に非類のないものだ。ケイ島では毎年、大小の船
が数百隻作られ、この島の代表産業になっている。

ゴロム島からの輸出品はナマコ、マソイ樹皮、野生ナツメグ、べっ甲などがあり、セラム
ラウッSeram Laut島やアル島に運んでブギス商人に売る。 手工産品としては帆布・粗い
綿布・パンダンの箱などもあるが、陸上での生活は概して怠惰であり、アヘン吸引に金と
時間を費やすために生活クオリティは貧困だ。


このわずか10マイル程度の島に十数人のラジャがいる。ラジャの生活レベルは一般庶民
と大差なく、形だけの統治者として座しているだけだ。ところが植民地政庁からオーダー
が下って来ると俄然、首長としての動きを展開する。自分より高位のオーソリティが背中
に付いたとたん、権力を振るい始めるのである。

ゴロム島内アマルAmar地区のラジャの話によれば、植民地政庁が島内の統治に干渉し始め
たのは数年前からで、それ以前は島内各ラジャの領地ごとにお互いが商売敵になって暴力
的な争いがひっきりなしに起こっていた。商売敵のプラフ同士が海上で戦争したり、商売
に訪れた島の同じ村を目指していた別々のグループが途中で出会って戦争するというよう
なことは普通だったそうだ。

ところがより文明的な上級統治者が原住民の頭上に乗って破滅的な闘争の抑止を図るよう
になってから、どのような諍いも平和的に解決することが習慣化してきた。ヨーロッパ人
による蛮族の土地の領有支配がもたらす優れた効果がそこにある、とウォレスはそれを評
価している。

しかし決して諍いがなくなったわけではないし、暴力による解決が消滅したわけでもない。
ある日、ウォレスの滞在している村で、長銃と重い弾帯を持った50人ほどの男たちが村
の中を通過して行った。かれらは村の境界線に関する諍いについて、相手方と交渉するた
めに協議の場所に赴く途中、その村を通過したのだ。

協議が穏やかに進展せず、交渉が決裂して戦争する必要性が起こった場合のために、かれ
らは万全の備えで交渉に臨むのである。[ 続く ]