「インドネシア語史(5)」(2021年06月16日)

そんな状況ではあっても、インドネシア語がますます磨かれた言語になっていったことも
認めなければならない。インドネシア語で書かれたあらゆる現代学術部門に関わる論説の
増加。それらの諸分野に登場する新コンセプトを描き出すための新語作り。学者から一般
人までが英語を主体にした外国語を使って威厳を高めることを望む傾向を持ちながらも、
学術言語としてのインドネシア語のキャパシティはより大きいものに成長して行ったので
ある。

文学と芸術の分野においても、地方語や外国語の諸要素をたいへんオープンに受け入れる
ことのできる性質のおかげで、インドネシア語はバイタリティに満ちた柔軟性を示した。

プラムディア・アナンタ・トゥル、スバギオ・サストロワルドヨ、ドドン・ジワプラジャ、
レンドラ、グナワン・モハマッ、スタルジ・カルズム・バッリ、JBマグンウィジャヤ、ア
リフィン C ヌル、プトゥ・ウィジャヤその他の諸作家の作品に使われたインドネシア語
は、プジャンガバルやバライプスタカの諸作家のそれと比べて、たいへんに異なっている
ように感じられる。今日のインドネシア文学者が使うインドネシア語ははるかに豊かであ
り、そして現実生活にもっと密着したものになっているのだ。


われわれが日々読んだり聞いたりするインドネシア語と、われわれの文学者や科学者たち
が使う言葉の間に広く深い断層があることは確かだ。学術言語の厳格さや文学言語の美し
さは、われわれが新聞で読み、テレビやラジオで聞くインドネシア語の中にかけらも見出
せない。乱れた文、混乱した語彙選択、円滑さの欠けた論理は、口語にせよ文語にせよ、
われわれが日常のインドネシア語で普通に出会うものになっている。

そのような欠陥が、良好適正なるインドネシア語使用キャンペーンだけで克服されるはず
がない。それは家庭や学校、更には社会生活の中で従来行われて来た、的の外れた国語教
育の帰結なのである。学校での国語教育がどうして的外れになっているのかについての因
果関係は既にたくさん表明されている。その中で多くの声が訴え、わたしもそれが主要因
だろうと考えているのは、学校での国語教育で重点の置かれているものが言葉に関する知
識であり、言葉を使う能力を伸ばすという面が軽視されていることだ。たとえばまだ正し
く文を作ることができない小学校4〜5年生の子供に、何のために主語や述語などの概念
を教えなければならないのだろうか。

教師が悪いのでなく、問題は使われている教科書にある。だが教科書作成者は教育文化省
の定めたカリキュラムに従っているのだ。だったら、カリキュラムを変えれば問題は解決
するのだろうか?

そこにはもっとたくさんの問題が関わっている。教科書作成者自身が、乱れた文、混乱し
た語彙選択、円滑さの欠けた論理の中にいるのだ。だから学校で使われる教科書や読本の
客観的で詳しい調査が必要とされるのである。教科書作成者や作成グループとの人間関係
を採用承認の規準にするのは避けられるべき腐敗行為だ。教室でその教科書を使う教師に
も、たくさんの専門的指導が与えられなければならない。全国学習修了評価テストなどの
試験問題作成者も、生徒を教育するという面から自己の役割を正しく認識しなければなら
ない。

その上で、文を作るための良いサンプルを生徒に示すための書籍が望まれている。そのよ
うな書籍は学校内外の多くの図書館に大量に備えられるべきものだ。作文のトレーニング
のための手本として適しているのは文学作品である。あるいはまた、学術的書物も思考の
流れを整然と示すことを学ぶための優れた手本である。言うまでもなく、それらの内容は
学生生徒の年齢とレベルに即したものでなければならない。学生たちが文学作品や学術関
連書籍にもっとたくさん触れることができるように、すべての図書館はそれらの書籍をそ
ろえなければならない。上述の改善のための動きは、総合的に進められなければならない
のである。[ 続く ]