「イ_ア語は非純正言語(前)」(2021年06月18日)

ライター: レアリノ研究院調査スタッフ、A ウィンダルト
ソース: 2008年5月28日付けコンパス紙 "Bahasa Indonesia segabai Aspal 
Kolonial" 

1928年の青年の誓いでインドネシアの青年たちが表明したあと、頻繁に議論されてい
たものが「統一言語」だった。オランダからの独立を目指す闘争のために考え出されたば
かりのスローガンがそれである。政党インドネシアラヤ党Partai Indonesia Rayaはイン
ドネシア語を、個々の党員が公式発言の際に使わなければならない公用言語にした。国民
参議会Volksraadのプリブミ議員も同様に、議事の中での発言はインドネシア語を使うこ
とを申し合わせた。

しかし、当時最大の政党や植民地政庁総督の諮問機関が使ったインドネシア語とはいった
いどんなものだったのだろうか?実際それは、インドネシア語という名を冠したムラユ語
だったのである。ただし、言うまでもなくそれは正しいムラユ語、つまり植民地政庁が、
そして植民地教育と民衆図書のための委員会およびバライプスタカが標準化した高等ムラ
ユ語だった。標準化プロセスの中心にいたオランダ人学者オパイゼンCA Van Ophuijsenの
名を取って、オパイゼンムラユMelayu Ophuijsen語とも呼ばれた。


そのムラユ語は初期のプリブミジャーナリストで文筆家のひとりだったマス・マルコ・カ
ルトディクロモMas Marco Kartodikromoの使った低級ムラユ語/ブタウィムラユ語/パサ
ルムラユ語と異なっていた。かれの文体は華人ムラユMelayu Cina風だったので、コヨチ
ノkoyok Cinoと呼ばれた。だが現代性を持ち表現力の豊かな高等ムラユ語もかれは一緒に
使っていたのである。

そのせいで、マス・マルコはヘイト扇動の罪名で何度も逮捕されている。かれの人生終焉
の場所は西パプアのボーフェンディグルに設けられた抑留者キャンプだった。かれは社会
から島流しされたムラユ語を使い、そのためにかれ自身が島流しにされた。路上の雑踏の
中に根を張った言語は言語学上で不純物扱いされ、隔離され、抑圧されたのである。


インドネシア語に関する上述のような研究、正確には言語政治学上の論説が、ルドルフ・
ムラウゼックRudolf Mrazekの著Engineers of Happy Land: Technology and Nationalism 
in a Colonyに述べられている。そればかりか、ムラウゼックはそのインドネシア語の問
題をきわめて正確にアスパルaspalと位置付けた。ここで使われているアスパルという語
はホンモノだがニセモノasli tapi palsuの短縮語であり、それとは別にアスファルトの
意味も持っている。それは、道路と鉄道の建設に邁進している植民地のモダン化と軌を一
にするものなのだ。

青年の誓い後の時期におけるインドネシア語の姿は、まだ力の備わっていない成長期にあ
る民族をアスファルト舗装のなされた頑丈な道路にするようなものだったのである。イン
ドネシア語のそんな姿は、述語や専門用語にもてあそばれるリスクに直面することを余儀
なくされた。

その分野においては、民族一体化の感情を育むことの期待されている言語表現がその効果
を発揮できず、それどころかまるで役に立たないことすら起こったのである。言い換える
なら、その言葉は無恥無情の様相を呈することになった。


< 頭脳アクロバット >
統一言語になろうとはかつて誰も想像しなかったインドネシア語が、「大通りのど真ん中
で恐れと戸惑いのために困惑し途方に暮れている、笑い種の裸足の馬車引き」と大差ない
姿を示すことになったのは、そこに原因があった。当時の最新鋭大通りでp.k.(馬力)と
かsidinとかsiminなどのレッテルを貼られるひとびとのステレオタイプイメージが形成さ
れた。それらのレッテルは原住民やプリブミの同義語を意図していて、裸足で大通りに出
て来るかれらはしばしば交通事故の犠牲になった。[ 続く ]