「オルバ語」(2021年06月22日)

ライター: 短編作家、クルニア JR
ソース: 2012年2月24日付けコンパス紙 "Bahasa Orde Baru" 

実に不思議だ。今日、今ごろ、印刷メディアにしろ電子メディアにしろ、たくさんの記者
がオルバレジーム制作の意味不明な単語diamankanをいまだに使っているのだから。たと
えば:
- Narkoba selundupan itu diamankan oleh petugas.
- Tas yang diduga berisi bom diamankan polisi.
- Pencuri itu sudah diamankan.
- Sapi yang mengamuk itu diamankan dengan bantuan satpam.

疑問が湧いてくる。何から、あるいは誰からdiamankanすると言うのだろうか?上の文か
らは、ナルコバ・爆弾・泥棒・牛などが他の人々の安全に脅威をもたらしていると理解さ
れるにもかかわらず、それらがdiamankanされるというのはどういうことなのだろうか?


時にはdiamankanの語がdisita, ditangkap, ditahan, diringkus, dikendalikanの意味で
使われているように見えることもあれば、時にはIbu-ibu yang unjuk rasa diamankan 
petugas.のように、レポーターが何を意図しているのかが理性で消化できないこともある。
そのイブイブは犯罪者でないのだから、ditangkapやdiringkusの意味でないのは明白だ。

まさか、女と見ればちょっかいを出す男たちからdiamankanされたわけでもあるまい。だ
ったら、これは何を意味しているのだろう。思うに、イブイブのデモが公安要員によって
dipatahkanあるいはdibungkamされたことをレポーターは言いたいのかもしれないが、そ
れらの言葉とdiamankanの語義はあまりにも離れすぎていないだろうか?


オルバレジーム制作語彙の特徴のひとつは、ある単語や表現の焦点が消失する、つまり蒸
気のようにモヤモヤになり、形もなくとらえどころもないものにされている点にある。コ
ミュニケーションシステムとしての言語は明確さがなければ機能しないにもかかわらずだ。

詩歌の中ですら、単語や行あるいは構想に特定のニュアンスを持たせるべく努めるのが詩
人ではあっても、読者が解釈を作り上げることを助けるための論理的な手がかりは用意す
るのが普通だ。文学者が創作の中で実現させようとしているのは最高度の言葉の理想化で
ある一方、オルバ支配者が行ったのは語義の曖昧化であり、言葉が示す論理からの逃避だ
った。つまり責任回避だ。


別の例としてdisesuaikanというのがある。基幹必需品の価格についてdinaikkanと言うと
ころをdisesuaikanという語で述べる。答えの得られたことのない質問が "disesuaikan 
dengan apa?"だ。民衆の懐具合を見るなら、明らかな矛盾である。「国家財政に合わせる」
ということならまだしも、そこで国政高官やクロニーがいったいどうやって蓄財できるの
か不思議でならない。

幸運にも、この表現は既に死滅し、メディア論説に登場することはなくなった。国民のだ
れも使わない言い回しになっている。


オルバ支配者の独特な呼びかけ表現のひとつに Mari kita ketatkan ikat pinggang. と
いうものがある。5年ごとに大統領に選ばれるたびに、スハルトは全国民の前でこの種の
言葉を述べた。だがこの呼びかけは、大統領とその家族ならびに取り巻き連に向けられた
ものではなかったのだ。つまり、誘い掛けの言葉mariと、自分と相手を含む代名詞kitaの
語は、インドネシア人が合意して使っているロジックに即さないものだったのである。

国家や宗教の記念日のためにあちこちに設置される垂れ幕に書かれるステレオタイプのス
ローガン Dengan semangat Hari Ini-Itu kita tingkatkan ini-itu.というのも、神聖さ
と意義に欠けるものだった。現国会での政権与党が声を大にして叫んでいるスローガン
「Katakan tidak pada korupsi!」も何ら変わるものではない。これがlain di bibir, 
lain di hatiというものである。