「インドネシアの語源(2)」(2021年06月28日)

そのような動きによってインドネシアという語は徐々にヨーロッパ社会に受け入れられ、
地理上の名称として知識階層が一般的に使用する語彙へと社会化されて行った。

オランダの東インド植民地に対する倫理政策が開始されてオランダ本国に留学するインド
ネシア青年層が増加するようになり、かれらがヨーロッパの最新事情として知ったことが
らの中に、自分の祖国をヨーロッパ人知識層はインドネシアと呼んでいる、という事実が
あった。

故国でオランダ人が使っている東インド(あるいはオランダインド)という言葉は本来、
プリブミが自分たちを呼ぶ言葉でなかった。それはあたりまえだ。東インドという概念は
ヨーロッパに視点を置いて語っているものであって、インドそのものと往古から関りを続
けて来たヌサンタラ原住民が自分をインドの一部と思うわけがない。

おまけに植民地政庁が原住民支配と抑圧の意味を含んで使う東インドという単語に心地よ
さを抱いたこともないプリブミ青年層がオランダ本国で出会ったインドネシアという言葉
は、きっとアカデミックな中立性とフレッシュな印象をかれらにもたらしたにちがいある
まい。


ダウス・デッカーDouwes Dekker+スワルディ・スルヤニンラ(後のキ・ハジャル・デワ
ントロ)+チプト・マグンクスモの三人組が政党インディシュパルタイIndische Partij
の中で取り上げたモダン政治構想によって、インドネシアという言葉はプリブミ一般大衆
にとっての政治アイデンティティになった。それはインドネシアに生まれたすべてのひと
に、人種種族や信仰を超えた民族意識と政治意識を持たせたのである。

東インド生まれの欧亜混血児たちの間にも、その反照としてインディシュ青年意識が生じ
るようになったことを歴史家は指摘している。このインディシュ青年意識は1840年代
にアピールの波が起こったことがあり、きわめて保守的なオランダ領東インドで起こった
きわめて稀なできごとという評価を与えられている。

問題の本質は、ヨーロッパ大陸を祖国と考え、ただある期間蘭領東インドに住むだけで、
時期が来れば祖国に帰るのみであり、オランダ東インドという地の将来など知ったことで
はないというヨーロッパ人が持っている観念を可とすることのできない、その地を生まれ
故郷に持つ混血青年たちのアイデンティティ意識に関わるものだった。


その著Perang Napoleon di Jawa 1811の中でジョン・ロシェJean Rocherは、オランダ植
民地時代のインドネシアで初めて政治改革を行ったのはインドネシア史の中で悪役にされ
ているダンデルスHerman Willem Daendelsだと書いた。ダンデルスは腐敗官僚を追放し、
プリブミ支配層に与えられた過剰な権利をはく奪し、統治行政の効率を最重要視した。ダ
ンデルスが悪者にされたのは、歴史のあやだったとかれは言う。

オランダ領東インドは米国領フィリピンやイギリス領インドに比べて、政治意識の成育に
関する大幅な開きを抱えていた。米国やイギリスが植民地の独立を不可避のものと捉えて、
その準備に心を開いていたことがその差を生み出したのである。[ 続く ]