「インドネシアの語源(終)」(2021年06月29日)

イデンブルフIdenburg第65代総督時代のインディシュパルタイの誕生とHOSチョクロア
ミノトらが起こしたサリカッイスラムSarikat Islam運動の出現は、それに続く青年層の
民族運動を激化させ、政治権力者からの抑圧もそれに比例して強まった。1926年の共
産党蜂起事件が植民地軍によって壊滅したあと、政庁はかさにかかってプリブミの政治運
動抑圧に向かった。そんな東インドに世界不況の波が押し寄せて来た。砂糖をはじめとす
る輸出商品作物によって成り立っていたオランダ領東インド経済は大打撃をこうむったの
である。


青年の誓いに向けて熱気の盛り上がりが感じられた。1927年、WRスプラッマンはパ
サルバルにある音楽店ポプレールToko Musik Populairの店主ヨー・キムチャンYo Kim 
Tjanの協力を得てインドネシアラヤを録音し、イギリスで作ったレコード盤をバタヴィア
で販売した。

1928年、全国の青年団体は第二回青年会議をバタヴィアで開催した。集まったのはヨ
ンヤファJong Java、スマトラ青年同盟Jong Sumateranen Bond、ヨンアンボンJong Ambon、
ヨンセレベスJong Celebes、ヨンミナハサJong Minahasa、バタッ青年同盟Jong Bataks 
Bond、ティモール青年同盟Jong Timoreesch Bond、スカルクンSekar Rukun(スンダ学生
青年組織)、ブタウィ青年団Pemuda Kaum Betawi、イスラム青年同盟Jong Islamieten 
Bondなどで、英語のyoungを意味するオランダ語jongを使うことを嫌った団体もちらほら
と目に付く。

第二回青年会議は場所を変えて集会が三度行われた。まず8月27日(土)19時から2
3時半までヴァーテルロー広場のカトリック青年同盟館で、翌28日(日)8時から12
時まで北コニングスプレインの東ジャワ映画館で、そしてその日17時半から23時半ま
での最終セッションがクラマッラヤ通り106番地にあるインドネシア会館Indonesisshe 
Clubgebouwで開かれた。

インドネシア民衆の独立運動封じ込めに躍起になっていた植民地政庁は当然のように青年
会議の禁止を表明したが、それはカエルの顔に水をかけた程度の効果しかなかった。集会
には議事進行を監視するために官憲が送り込まれ、集会の間中ずっと議場内で傍聴してい
た。かれらの任務は、議場内で「インドネシア独立」などという不穏な言葉が発せられな
いためのお目付け役であり、そのような言葉が飛び交うようになれば、即座にその集会を
解散させる権限も与えられていた。

ところが青年たちはその場にいる官憲にまったく臆する風もなく、インドネシアという言
葉を連呼して自分たちの未来を描き出したのである。もしもかれらが、定められたり与え
られた指示を守って整然たる秩序を維持し、社会の平穏と安全を第一優先にする性向を持
つ民族であったなら、青年の誓いがインドネシア史の中に生まれたかどうか分からない、
と書けば不穏当だろうか?


1928年8月28日夜の最終セッションが行われたインドネシア会館とはインドネシア
独立運動の青年志士たちが下宿していたシー・コンリョンSie Kong Liongの自宅で、青年
たちが独立運動の諸活動のための根拠地に使っていた場所である。当時、官憲はインドネ
シアという語の使用を禁止していたというのに、青年たちは堂々とそう命名して誰はばか
ることなくその名称を呼んでいた。そこが現在の「青年の誓い博物館」になっている。

独立後、新政府の要職を務めたモハンマッ・ヤミン、アミール・シャリフディン、アサッ
たちはかつてその家に下宿して、民族運動の進展に力を合わせていたのである。青年の誓
い成立に際して、華人シー・コンリョンが果たした功績は大きい。[ 完 ]