「イギリス人ウォレス(51)」(2021年06月28日)

1860年のクリスマスをウォレスはテルナーテで送り、年が変わった1861年1月、
かれは南方のティモール島ディリDiliに向かった。ティモール島西半分のオランダ領は1
859年5月に2週間、クパンと近隣の数カ所に合計二週間滞在して調査と採集を行った
ことがある。ポルトガル領ティモールのディリでの調査は初めてだ。ウォレスはディリを
Delliと綴っている。

1861年1月12日にウォレスと助手の一行はディリに到着し、イギリス人のキャプテ
ン・ハートに迎えられた。ハート氏はポルトガル領ティモールの物産を商い、また自分で
もコーヒー農園を経営しているディリの長期居住者だ。ハート氏は友人のギーチ氏をウォ
レスに紹介した。ギーチ氏は銅の鉱脈を発掘するためにそこに二年も滞在している鉱山技
師である。

ディリの家屋が泥土と草で作られているのを目にしてウォレスは、オランダ領の極貧の町
よりまだ過酷な、悲惨な土地だという印象を受けた。要塞でさえもが泥土の壁で作られて
いる。教会も税関役所も何ら違いがなく、おまけに見映えをよくするために飾ったり小ぎ
れいにしようという意欲も見られない。まるで貧しい土着民の町であり、おまけに町の周
辺に栽培や耕作が行われている雰囲気もない。

総督邸だけが他の建物に比べて風格を見せているとはいっても、他の土地へ行けばただの
貧相なコテージかバンガローのたぐいでしかない。町は少し離れた距離にある湿地と泥沼
に囲まれていて、ひとは容易にマラリアに罹る。ハート氏はその対策として、夜はいつも
町から2マイルほど離れた高原部の家に帰って寝る。ギーチ氏も同じエリアに自分の家を
持っていて、わたしの家をシェアしましょうとウォレスを誘ったので、ウォレス一行はし
ばらくギーチ氏の家に同居した。


体調がすぐれなかったために、ウォレスはハート氏の農園の近辺で昆虫や鳥を採集した。
2月に入って、山上海抜2千フィートにあるバリバ村を一週間ほど訪れようということに
なり、馬で7マイル足らずの距離を登った。半日の登攀でバリバ村に到着。

村には家屋が3軒だけあり、数フィートの柱の上に載った低い壁の家屋で、草ぶき屋根は
かなりの高さがある。ウォレスたちはまだ建築中の家を貸してもらった。そこからは眼下
にディリの町と海の美しい光景が見渡せた。

今は雨季の真っただ中であり、一日に太陽が十分照る時間はほんの1〜2時間しかない。
多分その天候のおかげで、鳥や他の動物も昆虫も貧しい様相を呈しているのだろう。鹿は
一頭もいなかった。

ジャガイモは海抜3千から3千5百フィートという山の高所にまで植えられていて食料に
は事欠かず、また家畜の羊も二日に一頭が屠られて客人の食糧にされた。ジャガイモと共
に高品質の小麦も栽培されている。そこで採れた小麦粉で作ったパンは、ウォレスがこれ
まで食べた美味しいパンと少しも遜色のないものだった。ヨーロッパやアメリカから輸入
された小麦粉で作ったパンと比較しても、決して劣るものではない。またコーヒーも1〜
2千フィートの高所でたくさん収穫されている。

ディリの町は海岸の低地にあり、マラリアの汚染地区になっている。ところが、ポルトガ
ル人が植民地にしてから三百年間、この地にいるほとんどのヨーロッパ人は不健康なディ
リの街中に住み続け、高原に家を建てて住もうという動きは起こらなかった。今でも、ヨ
ーロッパ人の半分は不健康なディリの街中に住み続けている。ハート氏のように、より健
康な生活が営める高原に住み、ディリの町との間によい道路が作られたなら、馬で1時間
ほどの通勤時間にしかならないというのに、ディリのポルトガル人はそれをしようとしな
い。

道路について言うなら、ポルトガル領ティモールには道路らしい道路が作られていない。
おまけにハート氏の農園は別にして、ここの広大な丘陵地に農園らしい農園もまったく存
在しない。農園の収穫物を港や消費市場に輸送するために、良い道路は不可欠である。道
路がなければ農園は十分に成り立たず、農園がなければ道路を作る必然性が低下する。原
住民が自発的にそういうことを行わないのであれば、政庁が指導すればどのようにも実現
させることができるのではあるまいか。[ 続く ]