「続・オルバ語」(2021年06月30日)

ライター: 元フランス国立東洋言語文化学院インドネシア語教官、アスフィ・ワルマン
・アダム
ソース: 2003年7月19日付けコンパス紙 "Bahasa dan Pelanggaran HAM"       

言葉は基本的人権問題にも関わっている。それどころか、ある一群のひとびとに対してな
された法律違反を覆い隠すことすらできる。たとえば過去40年間にわたって意味が極端
に変えられてしまったmengamankanという言葉がそのひとつだ。

ウマル・ウィラハディクスマがサインした1965年10月1日付け大ジャカルタ地区戦
争遂行司令官命令書にmengamankanの語が使われた。新聞Angkatan Bersenjata紙とBerita 
Yudha紙の印刷所を守備するための保護を行えという内容だ。事件後の一週間、その2紙
だけが発行を許され、他の新聞は発行が禁止されて、その間軍部はG30S運動を背後で
操ったのが共産党であるというキャンペーンを効果的に流した。

1966年3月19日、治安機構はスカルノ大統領を支持していると目されていた15人
の大臣をmengamankanした。mengamankan menteriという表現はmenangkap menteriを意味
している。1969年、G30Sに関わった疑いのあるB級政治犯が千人以上、ブル島に
送られた。裁判にかけるには十分な証拠がなく、ただ疑惑がからんでいるだけのかれらに
対して、「共産主義者をこころよく思わない宗教グループが行うかもしれない報復行為か
らかれらをmengamankanするために」という名目での流刑がそれだった。ここで使われた
mengamankanの意味は、一部の人間に対してなされた期限のないmerampas hak asasiであ
る。


基本的人権違反に関連するできごとはまだある。1965年の特定政治犯たちは治安機構
内の各機関の間で受け渡しされた。それはボンbon(借用証文)と呼ばれたものの、返済
の存在しない貸借だった。あたかも品物や金銭のような感覚で囚人が授受され、待遇が変
化した。bonが行われる時間waktu pengebonanは朝もあれば夜もあり、その時間の違いが
大きい意味を持っていた。朝ボンbon pagiはヨグヤカルタのウィログナンWirogunan監獄
からヌサカンバガンNusakambangan島へ送られることだったが、夜ボンbon malamはグヌン
キドゥルGunung Kidulで処刑されることを意味していたのである。

その時期、クディリKediriやジョンバンJombangのような東ジャワの町では、G30Sに
関わったと告発される者が多数に上った。その大量の囚人に飯を食わせる十分な予算が地
元治安当局になかったことから、それらの囚人をdisukabumikanさせよという命令が下さ
れた。このスカブミは西ジャワの地名と関係がなく、原意であるsuka+bumiつまり大地を
親しんで、大地(の下)に安住するという意味で使われている。

軍隊では、同じようなニュアンスでdisekolahkanという言葉も使われた。指揮官が兵士に
向かって、特定個人あるいは特定集団の生命を奪うことを命じる表現である。アムラン・
ザムザミの書いた「トゥンク・バンタキアとサントリたちの虐殺」の中に、スジョノ中佐
が部下に与えた命令の言葉がこう記されている。「Dik, sekolahkan saja semua orang 
itu.」。そして1999年7月23日、トゥンク・バンタキアとかれに随順する56人の
者たちは皆殺しされた。スジョノ中佐に命じられてsekolahkanを行った部下たちは監獄に
入れられたものの、スジョノ中佐は跡形もなく蒸発している。軍隊内でのその種の隠語は
延々と続けられており、パプア運動リーダーのテイス・エルアイを殺した事件でも、その
作戦の暗号はpenggalanganになっていた。


ショックセラピーは医学や心理学における学術用語であるが、基本的人権違反言葉にもな
った。オルバ政権は特殊な目的のためにその言葉を乗っ取ったのだ。たとえば、ペトルス
petrus=pembunuhan misterius事件での用法だ。インドネシアのあちこちの町で、世の中
の不良分子・厄介者と指さされていた者たちが次々に粛清される事件が1982〜83年
に起こった。死者は5千人と推定されている。当時の外相モッタル・クスマアッマジャは
外国外交団に対して、ギャンググループ間の抗争であると説明した。ところがスハルト将
軍自伝の中であの事件は治安機構が行ったものだったことが明らかにされ、世界中にショ
ックをばら撒いた。スハルトは「あの措置はショックセラピーterapi goncanganのためだ
ったのである。」と表明した。

似たようなことは、1989〜1998年の間続いたアチェのDOM体制の中でも起こっ
た。1999年にシナールハラパン書房が発行した「アチェは告発する」と題する書籍に
は、GAMに関わったと疑われた者たちに対する処刑や拷問が故意に住民たちの眼前で行
われた、と書かれている。アチェ大衆へのショックセラピーがそれだったのである。