「バタヴィア最初の映画館(1)」(2021年07月01日)

オランダ領東インドでの映画事業は、オランダ人タルボットTalbotが始めた。東インド史
上初の映画館はブリキ屋根に竹網壁の小屋がバタヴィアのコニングスプレインに設けられ、
そこで夜に映画が上映された。バタヴィアでの興行が終わると映画館は解体され、次の興
行が行われる町に運ばれて、その地でまた組み立てられた。

事業競争はたちどころに始まる。オランダ人シュヴァルツSchwartzが映画の興行をバタヴ
ィアのタナアバンTanah Abangに近いクボンジャヘKebon Jaheにある馬術練習所で開始し、
しばらくしてからそこに常設映画館を作った。バタヴィアでの第一回上映は1900年1
2月4日であり、それが常設映画館における映画の事始めになった。ところがその映画館
は後に火事で灰になってしまう。

他にもデ・カロネJules Francois de Calonneがこのビジネスに参入した。1915年に
コニングスプレインの北東エリアにオープンしたデカパルクDecaparkは総合レクリエーシ
ョンパークであり、この公園内には音楽・演劇・スポーツのための施設やレストラン・カ
フェなどが設けられ、映画の上映はそこでの目玉の一つになった。

デカパルクの映画館は最初オープンシアターだった。後にインドネシア人が言うところの
ミスバルmisbarである。ミスバルとはgrimis bubarの短縮語であり、雨がパラつくと上映
が終了することを指している。カロネはその後、ヴィルヘルミナパルクWilhelmina Park
に近いピントゥアイルPintu Airの建物を映画館に改造し、カピトルCapitolという名前の
映画館にした。

カピトルはオランダ時代の最後までオランダ人専用映画館として運営された。入場料は
1.5フルデンの一律で、観客のクラス分けがなかった。オランダ人専用とはいえ、ブパ
ティなどのプリブミ首長や東インド参議会プリブミ議員の入場は認められていた。

プリブミが障害なく入れる映画館は座席がクラスで分けられ、一等2フルデン、二等50
センの入場料金になっていたが、低階層一般庶民の生活がsehari sebenggolと言われてい
た時代では、スブンゴルとは2.5センのことであり、その階層のひとびとにとって50
センは20日分の生活費に相当するわけで、いかに無声映画とはいえ、映画はまだまだ庶
民の手の届くものになっていなかったということだろう。

映画館経営者にとってその状況は遊休設備を抱えるようなものであり、放っておくわけに
はいかない。そのころ演劇はまだまだ庶民の娯楽であり、劇場の入場料ははるかに廉いも
のだったから、映画館の多くも劇団を招いて映画館で演劇興行を行わせた。

ジャワのダグラス・フェアバンクスの異名を取ったタン・チェンボッTan Tjeng Bokやプ
リマドンナのミスジャMiss Djaに支えられた劇団ダルダネラDardanellaがしばしば映画館
で芝居を演じていた。

華人がこの新興ビジネスに乗って来ないはずがない。パサルバルを根拠地にする実業家テ
ィオ・テッホンTio Tek Hongはやはりピントゥアイル地区に映画館をオープンし、エリー
トEliteという名前をつけて映画ビジネスに進出した。数年後、エリートはユニバーサル
映画会社に売却されている。

やはり華人実業家のひとり、タン・クンヨーTan Koen Yauwも1911年、スネン地区に
映画館West Javaをオープンし、1920年にRialtoと名前を変えた。かれはタナアバン
地区にも同名の映画館を開いた。


客席のクラス分けはそれぞれの映画館が独自に行ったが、オランダ語のバルコンbalkon、
フランス語由来のロジェlogeやスタールstallesなどをクラス名称に使うところも、シン
プルに一等kelas I、二等kelas II、三等kelas IIIと分けるところもあった。スクリーン
から遠い方が、料金が高くなるのである。[続く]