「イギリス人ウォレス(54)」(2021年07月01日)

カイェリは20世紀初めごろまでブル島の首府だった。オランダ要塞が造られ、オランダ
政庁行政官が駐在していた。ところがすさまじい洪水のためにカイェリが壊滅した結果、
政庁は1919年に首府を湾の対面にあるナムレアNamleaに移転させたのである。


ウォレスはブル島に二カ月滞在する予定を組んだ。郵便船はマルクの島々をひと月かけて
巡回するからだ。ウォレスの乗った郵便船が港に入ると、ブル島要塞指揮官が原住民の小
舟でやってきて郵便物を受取り、ウォレス一行と荷物を積んで陸地に引き返した。郵便船
はそのまま港を出て行った。

要塞指揮官が直々に郵便物を受取りに来るぐらいだから、ブル島要塞とは言ってもわずか
12人ほどのジャワ人兵士と指揮官付き副官がいるだけの小世帯である。それでも要塞建
物は堅固に作られ、ちゃんとした装備を持ち、戦争の役には立つようになっている。ディ
リのポルトガル要塞には少佐・大尉・中尉などの士官や兵士が大勢いて、兵力を比べれば
比較にならないものの、そのあまりにも見すぼらしい姿を比べれば、戦闘力の大きさは一
気に逆転するようにウォレスには思われた。

指揮官は郵便物をブル島取締官Opzeinerの居宅兼事務所に運んだ。ウォレスもそれに付い
て行った。ブル島は副レシデンが置かれるほどの要所でないために、もっと下級の植民地
官僚が現地の監督者として駐在している。ブル島取締官はアンボン生まれの混血者だった。

取締官が手紙を呼んでいる間、ウォレスはガイドを付けてもらって借家を探しに村に出か
けた。村は沼地の中にあって、地面は水と泥でいっぱいだ。家は1フィートほど水面から
高く盛った土の上に作られ、周囲を湿地が取り巻いている。家の木製の枠組みはたいてい
上手に作られているものの、床は土間であり、外の道と床の間には段差がない。床は湿気
に満ちている。


ウォレスは最終的に道路から1フィートほど床が高くなっている家を見つけて、家の主と
交渉した。家主は家財道具を置いたままで家を空けることを同意し、ウォレスはその夜、
屋内を片付けて自分の好む配置に自分の荷物を整頓し、自分のライフスタイルをその家で
満喫できるようにした。家主はどこか親戚の家に転がり込むだけで数個の銀貨が手に入る
のである。たいていの原住民はその簡単な金稼ぎを否とは言わない。

ブル島のいくつかの土地を見た後でウォレスはブル島民について、人種面で優勢な特徴は
スラウェシのムラユ型だと考えた。ウォレスがバチャン島で見た東スラウェシのトモレ人
に類似している者がしばしば見つかる。次いで優勢な特徴はセラム島のアルフロス型だっ
た。ブル島人の外見にそれらの特徴の混在を見出すことができる。

東スラウェシのスラSula島からブル島北岸までは40マイル足らずの距離、セラム人にと
ってブル島への航海はマニパManipa島から簡単に行える。その仮説は、使われている言語
からも証明できるものだ。


ウォレスはカイェリに家を借りて近辺を探ってみたが、どうやらブル島に早く来すぎたこ
とが明らかになった。ここはまだ雨季が終わっておらず、生物相がたいへん貧しいことが
判明したのである。もっと奥地に入ってみたらどうだろうかと考えて、ウォレスは5マイ
ルばかり川をさかのぼったアルフロスの村への訪問をアレンジした。するとカイェリのラ
ジャが、その村はわが支配下の村だからということで、ウォレスの訪問に同行することに
なった。ラジャはたいへん落ち着いたひとがらの老人だった。

泥まみれになりながらの奥地訪問もたいした成果が上がらなかったため、情報を集めるこ
とにした。島の北側は丈の高い草に覆われた沼地や湿地だらけだが、南部海岸はワイポテ
ィWaypotiから森林が続いていることが分かった。但しペラPelahから向こうの海はモンス
ーンに直接さらされるので危険であるため、プラフでペラまで行き、そこから徒歩で進ま
なければならない。

現代インドネシアにはWaepotihとPelaという場所がある。Pelaは位置的につじつまが合う
のだが、Waepotihはブル島北岸にあってウォレスの文に従うとおかしなことになる。昔は
別の場所がその名で呼ばれていたと理解せざるを得ないようだ。[ 続く ]