「バタヴィア最初の映画館(4)」(2021年07月06日) トーキー時代は1927年に米国で幕を開き、バタヴィアでトーキー映画が初めて上映さ れたのは1929年だった。ところが、トーキー上映が幅広く行き渡るのに1934年ま で待たなければならなかった。というのも、移行の初期には、サイレント映画で栄えてい た映画館の多くがトーキーシステム機材のあまりの高額さにめまいを起こしたからだ。6, 540から19,490フルデンという高価なトーキー機材の購入に迷い、あるいは資金 の工面に時間をかけざるを得なかったのだろう。 折りしも映画制作会社はそれを予知していたかのように同一映画のトーキー版とサイレン ト版を作ったので、映画フアン大衆に映画危機が発生することはなかったようだ。 サイレント映画は一般にfilm bisuと呼ばれたが、ブタウィ人はfilm gaguと呼んだ。トー キー時代が始まったとき、ひとびとはそれをfilm bicaraと呼ぶようになり、そのうちに bisuやbicaraという言葉で区別する必要のない時代に移行して行った。 トーキー時代が始まっても、ハリウッド製カウボーイ映画が大衆の人気を博した。それは ジャゴアンjagoanである強い男を演じる男性スターの時代だったのだ。とはいえ、アメリ カのジャゴアンを相手にするマリリン・モンローやエリザベス・テーラーなどの美女スタ ーも高い人気を得た。かの女たちのブロマイドは大いに売れた。 ジャゴアンたちとは別に、一躍時代のスーパースターに躍り出たのはクラーク・ゲーブル やルドルフ・ヴァレンチノで、ゲーブルの鼻ひげのセックスアピールが娘たちや奥様方に 好評で迎えられ、娘たちはヴァレンチノに熱い視線を送った。 1942年2月に日本軍がバタヴィアを占領したとき、有力な映画館は次のようにバタヴ ィア内に散在していた。 Rex - Kramat Bunder Cinema - Krekot (後のKrekot) Astoria - Pintu Air (後のSatria) Capitol - Pintu Air Rembrandt - Pintu Air Dierentuin - Cikini Centraal - Jatinegara (後のNew Jaya) Rialto - Senen Rialto - Tanah Abang (後のSurya) Thalia - Hayam Wuruk Olimo - Hayam Wuruk Orion - Glodok Al Hambra - Sawah Besar Oost Java - Rijswijk このレイスウェイクのオーストヤファ映画館が、1928年8月28日の午前中に第二回 青年会議の第二次集会が開かれた東ジャワ映画館だ。 日本軍政期になると、映画館は日本軍の戦意高揚映画で占められるようになる。米英蘭中 などの敵性映画はもちろんご法度で、日本製やインドネシア製を除けば、せいぜいドイツ やイタリアの映画が検閲許可を得て上映される程度だった。 植民地政庁統治下の1936年に全東インド人口は6千万人いて、映画館は130軒が稼 働していた。1945年の共和国独立後、映画館の数はうなぎのぼりになったが、オルラ 期のアンチ西洋政策のために西洋映画ボイコット運動に発展し、映画館数は激減した。 1964年にインドネシア共産党が米国・イギリス・イタリアなど資本主義諸国で制作さ れた映画のボイコットを開始したのである。スカルノ政府の方針に即したPAPFIASが各地 で大衆動員によるデモや非難行動を行い、米国帝国主義宣伝映画をヌサンタラから追放せ よと叫んだ。Panitia Aksi Pemboikotan Film Imperialis ASというのがそのPAPFIASの正 体である。[続く]