「バタヴィア最初の映画館(終)」(2021年07月07日)

ただ「西洋映画を上映するな」と言うだけでは映画館への営業妨害と何の違いもない。イ
ンドネシア共産党とその宣伝機関のひとつ人民文化機関(Lembaga Kebudayaan Rakyat = 
LEKRA)は東側諸国が制作したイデオロギー宣伝映画を輸入して、全国の映画館にその上映
を強要した。政治権力を背負って強要されれば、国民のひとりである映画館経営者は従わ
ざるを得ないだろう。しかし映画の観客に「金を払ってこの映画を見ろ」と強要すること
はできないのである。反対に観客のマジョリティが楽しい映画を上映しない映画館をボイ
コットするようになり、映画館経営は破綻して全国の映画館数が激減した。

G30S事件とその後の共産主義者狩りがその映画館ビジネスにとっての冬の季節を追い
散らして春を呼ぶ結末に至ったわけだが、なんとも後味の悪い春の季節になったものであ
る。


1970年代の庶民の娯楽は映画だった。テレビ放送はまだ国営のTVRIに独占されて
いた時代であり、特定の人気番組はみんなが見ても、テレビの前にかじりつくような時代
でなかったから、家族や若いカップルが行くところは映画館が主流を占めた。

中でも、ルバランになると誰もが余暇を持て余し、子供たちすらお年玉をもらって金回り
がよくなるので、昼間から映画館に殺到することも起こった。需給関係が需要過多になれ
ば価格が上昇する。さすがに映画料金を需給関係に応じて引き上げる映画館は見られなか
ったものの、ダフ屋が跳梁跋扈した。今ではチャロcaloと呼ばれている行為だが、70年
代はチャトゥッcatutという言葉をよく耳にしている。

面白いのは、catutは常に行為を指し、行為者はtukang catutとなる一方で、caloは行為
と行為者の双方に使われ、特にtukang caloと言う場合は行為者を強調していると見られ
ることだ。用法が異なっている。

映画入場券のダフ屋の歴史は日本軍の置き土産だと語る声がある。1946年に出た雑誌
記事の中に、映画館でcatut行為が初めて起こったのは日本軍政時代であるという文があ
り、更に1963年の雑誌記事には現在インドネシアで繁茂しているcatutの源泉が日本
時代だったという文も見つかる。

1956年制作のインドネシア映画にも、ダフ屋のシーンが登場する。映画を見るために
映画館へ来た恋人同士が列に並んでいると、窓口で「売り切れです!」と言う声と窓口を
閉める姿が見えたので、ふたりは急いで駐車場に向かう。駐車場にはtukang catutがいて、
入場券をヒラつかせながら客を待っている。二倍の金額を言われたふたりは口惜しそうに
諦めるというシーンだ。

ダフ屋行為は、売り場窓口の職員がからんでいるケースと無関係のケースがある。からん
でいればダフ切符販売者の投資リスクは消滅する。内部者との伝手を持たないダフ切符販
売者は自費で切符を手に入れなければならないから、買い手が付かなければ大損だ。

露骨に5〜6人が徒党を組んで列の前方に割り込むような連中は、その後者と見て間違い
あるまい。買い手にも頭のいい人間がいて、中で映画上映が始まったと見るや、外でダフ
屋に向かってハードネゴを始める者もいるようだ。


わたしも1980年代前半に、ヨグヤカルタからジャカルタに夜行列車で戻ろうとして、
チャトゥッの標的にされた体験がある。トゥグ駅構内の乗車券販売窓口の列に並び、そし
ていざ自分の順番が来たとたん、窓口職員がさっとカーテンを引いて椅子から立ち、背を
向けた。お前にはここで売らないという意思表示だろう。わたしには初体験のできごとだ
ったから面食らってしまった。すかさずダフ屋らしい男が近寄って来たが、相手にしない
で宿に引き揚げた。今となっては、懐かしい思い出のひとつだ。[ 完 ]