「オルバ語は非イ_ア語」(2021年07月08日)

ライター: スエーデン在住言語オブザーバー、アンドレ・モレン
ソース: 2007年8月31日付けコンパス紙 "Siapa yang Aman?"        

10年前にわたしがインドネシア語を学び始めたとき、受動態と能動態の違いがたいへん
な障害になった。インドネシア語クラスを受講したわれわれ学生は最初の一年間、動詞の
基語形だけを与えられたので、Saya baca buku. Dia beli mobil.などの文に接して、イ
ンドネシア語というのはとても易しくて覚えやすい言語だと思った。

二年目になって、Saya membaca buku. Dia membeli mobil.のような能動態接頭辞が与え
られ始めたとき、戸惑いが始まって頻繁に頭をかくようになった。そして教官が受動態文
を教え始めたとき、わたしたち学生の戸惑いは頂点に達した。Buku ini saya baca. Mobil 
itu dibelinya.これは一体何なのだろうか?理解できる原理を超えている気がして、外国
人には学習不可能な言語ではないかと思うようになった。学生はみんな、受動態形式を嫌
った。

受講する学生数は減っていったが、なんとかクラスに踏みとどまったわれわれは、それら
動詞のふたつの異なる形態と用法を少しずつ理解できるようになった。


ヨグヤカルタにある外国人向けインドネシア語教室で集中訓練を受けたあと、わたしは受
動態形式が好きになった。わたしはいま、受動態形式はたいへん実用的であり、使いやす
いと感じている。特に会話相手の呼び方の間違いを犯して、不敬の印象を相手に与えるリ
スクを避けるためにも。

今のわたしは能動態と受動態の違いを十分に理解し、Saya dibuka pintunya.のような恥
ずかしい間違いをそう頻繁には犯さないようになっているものの、高い頻度で出現するひ
とつの言葉に依然として戸惑いを感じている。amanという語だ。

KBBIにamanの語義は、「bebas dari bahaya」「bebas dari gangguan」「terlindung」
などと記されていて、それ自体には何の問題もない。しかし、インドネシアの新聞を開く
たびに[Penjahat diamankan polisi]や[Polisi mengamankan pencuri mobil]といった見
出しが現れる。それはわたしを混乱させ、どの動詞の形が正しいのかをヤマ勘で決めてい
た昔の学生時代のことを思い出させるのである。


わたしの言語ロジックで解釈するなら、警察が犯罪者を捕らえたとき、diamankanされる
のは犯罪者でなくて広範な世間一般のはずだ。世間がamanを感じるのであって、犯罪者は
むしろ怖れを抱くはずだ。犯罪者がamanを感じるのはおかしい。だからたとえばこんな見
出し[Penjahat ditahan, masyarakat diamankan]が書かれて当然と思われるのだが、その
ような文を見たことがない。犯罪者が捕まれば、世間がdiamankanされるはずなのに。

この混乱は基語amanが持っている動詞形態に由来している。amanの語義は上で述べたよう
に「bebas dari bahaya」である。ところがKBBIにmengamankanの語義は「menjadikan 
tidak berbahaya」と記されていて、わたしの言語ロジックが主張している「menjadikan 
bebas dari bahaya」になっていない。

その辞書にあるpengamanの語義を読んだわたしは、ますます不可解になった。その語義は
「orang yang mengamankan (negeri, kota)」と書かれていたのだから。わたしの解釈で
その意味は警察あるいはその種の警備人を指しているように思われる。だったら、KBB
I自身が定義付けているmengamankanの語義をそこに代入してみよう。するとpengamanの
語義はこうなる。「orang yang menjadikan tidak berbahaya (negeri,kota)」

kota berbahayaは存在し得るか?多分あり得るだろう。だが、それをtidak berbahayaに
することのできる人間はどうだろうか?それもあり得るのであれば、こう言い換えられな
いだろうか。「orang yang menjadikannya bebas dari bahaya」これはつまり「orang 
yang menjadikannya aman」と言い換えることができる。mengamankanの語義はわたしのロ
ジックと本当に異なっているのだろうか?