「イギリス人ウォレス(58)」(2021年07月07日) バタヴィアから40マイル離れた奥地にある、標高1千フィートのバイテンゾルフをウォ レスは乗合馬車で訪れた。有名な植物園は、確かに素晴らしい植物が集められているのだ が、レイアウトが決して素晴らしいと言えるものになっておらず、ウォレスは大した感銘 を受けなかったようだ。おまけに園内の遊歩道は砂利が疎らに撒かれた道だったために、 歩くのに疲れて足が痛くなった。世界に名高いこの植物園はどうやら、素晴らしい植物類 の世話を正しく行える人間の数が不十分なのではないかとウォレスは感じた。 バイテンゾルフを後にした一行は、ダンデルスが造った峠越えの郵便道路に向かった。荷 物担ぎ人を雇い、ウォレスは借り馬に乗って上り道を進む。馬と人足は6〜7マイルごと に交代する。現在のプンチャッPuncak街道であるその道は徐々に高度を増して行く。 果樹に囲まれた原住民の村や瀟洒なビラがあちこちにある。農園主や退職したオランダ人 公職者たちが住んでいるそれらのビラはこの地域一帯が文明化された快適な土地であるこ とを物語っているようだ。だがそれにもまして、ウォレスは道の両側に開かれた棚田の風 景に感動した。棚田はバリとロンボッで初めて目にし、大いに感嘆したものだが、ここで 再び目にした棚田のシステムを世界に二つとない優れたものだとウォレスは思った。山の 斜面をある高さまで棚田が取り巻き、かなりの距離にまで奥地につながって数百平方マイ ルの土地が原住民の生産活動に使われているのだ。ウォレスはそのシステムがインド人に よってもたらされたものではないかと推測した。 その峠越え郵便道路をバイテンゾルフから20マイルほど上って行くと、海抜4千5百フ ィートのメガムンドンMegamendong峠に達する。現代インドネシアでその峠はプンチャッ パスPuncak Passという名称になっており、メガムンドゥンMegamendungはプンチャッ街道 チアウィCiawi入口から近い別の土地の名称になっている。 ダンデルスが大郵便道路建設に際してグデ=パンラゴ山系を突っ切るルートを選択したと き、オランダ人はスンブル峰をメガムンドゥン山と呼んだようだ。多分、原住民がそう呼 んでいたからだろう。 山越えの道路建設工事を視察しているダンデルスの姿を描いたラデン・サレ制作の肖像画 には、ダンデルスが持っている地図にメガムンドゥンという文字が記されているし、19 04年に作られた地図にも、現代のプンチャッパスはメガムンドゥンと記されている。 その現象から、グデ=パンラゴ山系の全体が昔はメガムンドゥンと呼ばれていたのではな いかという憶測が生じるかもしれないが、グデ=パンラゴ山系は正しくグデ=パンラゴ山 と称されており、ウォレスも著作の中でPangerango and Gedehと書いているから、どうや ら現在のスンブル峰がメガムンドゥン山と呼ばれていたのではないだろうか。 峠から5百フィートほど下ったところに道路番の住居があり、ウォレスはその半分を二週 間借りて採集活動を行った。確かにその一帯は鳥も昆虫も豊かな場所で、ウォレスと助手 たちは一週間に24種の鳥を手に入れ、二週間でそれは40種に増えた。大型で美しい蝶 もかなりいて、珍しい蝶もコレクションに加えられた。 峠から道路を4マイル下ったところにチパナスCipanas村があり、そこには植民地政庁総 督用カントリーハウスがあって、そこにバイテンゾルフ植物園の支所が設けられている。 カントリーハウス管理人は一晩、ウォレスの宿泊を許可してくれた。 庭には美しい木々灌木が植えられ、また総督の食卓に載せられるヨーロッパの野菜が植え られていた。一方には蘭の咲き乱れる一画もあって、露天のその蘭園は珍しい風情を見せ ていた。ウォレスはこのグデ=パンラゴの山中でニ三泊したいと考え、荷物担ぎ人をふた り雇い、助手二人と一緒に登攀を始めた。チパナス植物園はグデ山の麓に位置しており、 そこからグデ山登山道が伸びている。[ 続く ]