「イギリス人ウォレス(59)」(2021年07月08日)

しばらく登ってチブロンTjiburongの高原に達し、そこの山小屋で昼食を摂る。更に上っ
て高度7千5百フィートのカンダンバダッKandang Badakと呼ばれる地点にまた山小屋が
あった。ウォレスはそこをベースにして数日間、熱帯の高山の登頂を愉しんだ。グデ山の
火口もかれは観察している。その一帯はほとんど毎日、雨と霧の悪天候で、ほんのわずか
な鳥の採集しかできなかった。昆虫も同様であり、一匹の蝶も手に入れることができなか
った。ここは乾季に来るべきだったとウォレスは口惜しんだ。

その後、プンチャッ峠の西側にあるトゥグ村に場所を移し、数マイル北側のコーヒー農園
で鳥と虫を探したが、雨季の始まった天候のためにたいした猟果は得られず、西ジャワを
去ることにした。バタヴィアに戻って標本をロンドンに向けて送り出すと、ウォレス一行
は11月1日に出港するシンガポール行き郵便船に乗った。


バンカ島のムントッMuntok港で下船した一行は、パレンバンPelembangへ行くための船を
求めて、数日滞在した。帆船でムシMusi川の河口まで行き、漁村で櫂漕ぎボートを雇って
川をおよそ百マイル遡った。ウォレスはムシ川のことをパレンバン川と書いている。

パレンバンの町に着いたのは11月8日で、町に住む医師宛の紹介状を持って来たウォレ
スは医師の家に泊めてもらった。良い採集場所を教えてもらおうとしたが、川の両側はど
こも洪水で水浸しになっており、乾いた地面の森はずっと奥地へ行かなければない、と誰
もが言う。それでウォレスは、行き先を決めるためにもっと情報を集めようと考えて、パ
レンバンに一週間滞在することにした。

パレンバンの町はテームズ川ほどの広さがあるカーブした川に沿って、4〜5マイル広が
っている。しかし川岸には杭に乗った住民の家が並び、場所によっては筏に乗った家が列
をなして、川幅を少し狭めている。それらの家のほとんどは店舗であり、川面に向かって
開いている。客は舟で買い物にやってくるのだ。

ここの原住民は真のムラユ人だ。かれらは住むことのできる水辺があれば乾いた土地に家
を建てることをせず、行こうとしている場所がボートで行けるのなら、決して歩こうとし
ない。他にはかなりの数の華人とアラブ人がここに住んであらゆる商売を行っており、ヨ
ーロッパ人は政庁の文民と軍人の職員がもっぱらだ。


情報を集めた結果、期待できそうなことが分かった。ムシ川を一日遡ると、山越えをして
ブンクルBengkuluまでつながっている軍事道路があるという話だ。その道を進んで行けば
良い採集場にたどり着けるだろう。

ウォレスたちは軍事道路の出発地点になっているロロッLorok村目指して朝早く出発した
が、到着したのは真夜中だった。ロロッ村へは、ムシ川の支流を遡る。その村の様子をよ
く観察するため、ウォレスは数日そこに滞在した。しかし村の周辺は耕作地になっており、
わずかな森は湿地の中にあった。ロロッ村で新種の鳥をひとつだけ得ることはできたが、
そこで採集活動を行うのは無駄が多すぎる。村人たちはウォレスに、軍事道路をどこまで
行こうが、いずこもこの村の周辺のようなありさまであり、一週間かけてもウォレスにと
って格好の狩場は見つからないだろう、と熱心にアドバイスした。だったら、何日も移動
に時間を費やすことになるだけであり、これほど馬鹿々々しい話はない。

しかし、良い場所があるとウォレスに教えてくれる者がいた。その村から30マイル足ら
ずの距離にあるレンバンRembangへ行ってはどうかと言うのである。それなら一日の距離
だ。ウォレスはレンバンへ行くことにした。

道路は10〜12マイルで規則的に区切られていてステーションがあり、常時6〜8人の
村人が警備に就いている。道路の区切りは荷担ぎ人が一日に進める距離であり、ステーシ
ョンで荷担ぎ人もすぐに手配されるので、たいへんに便利だ。その報酬も定価が決まって
いる。近隣の村々が回り持ちで警備と荷担ぎの者を出す。一回の勤務は5日間。またステ
ーションには旅行者の宿泊設備があり、料理場も付属している。[ 続く ]