「イギリス人ウォレス(終)」(2021年07月09日)

ウォレスはその一区間を午前中に歩き、午後は近隣の村々を回って借家を探した。逗留す
るのにも、煩雑な手続きなど何もない。そうやって三日間道路を歩き、レンバン地区の最
初の村、ムアラドゥアMuara Duaに着いた。地面は乾いており、森が波打って続いている。
そこに二週間滞在したが、昆虫は貧しく、鳥もマラッカのものとたいてい同一で、独特の
ものは稀にしかいない。


次の村、ロボラマンLobo Ramanに移動した。スマトラのムラユ村は個性的で絵になる。数
エーカーの土地が高いフェンスで囲まれ、そこに家屋が規則性など一顧だにされずに散在
している。家々の間に背の高いヤシの木が満ち溢れ、地面は踏み均されて滑らかだ。家屋
は6フィートほどの柱の上に板材と竹を使って建てられている。家屋外面の板や横桁はた
いてい趣の深い装飾が彫り込まれているが、この辺りの家屋の装飾はミナンカバウの家屋
ほど凝ったものではない。屋根は急傾斜で、破風の上に突き出している。

床は割竹で、いささか危なっかしい。屋内に家具と呼べるようなものは存在しない。椅子
などまったく見当たらず、ただマットを敷かれた平らな床があるだけで、住人はそこに座
ったり寝転がる。

村の外見はこざっぱりしていて、掃除が行き届いているが、臭い。それは、各家が建って
いる下の土地にある汚水穴のせいだ。高床の上での生活から生じた汚水や汚物が、床の穴
から下の地面に落とされる。

ムラユ人の生活習慣はだいたいにおいて清潔度が高いのだが、この不潔な習慣はきわめて
例外的なものと言える。ウォレスはこの習慣について、ムラユ人は元来、水上生活者だっ
たことに端を発しているのではないかと推測した。

元々は海中に杭を打って、その上の家屋で生活していたかれらは、徐々に内陸部に移って
行った。最初は川岸で同じようにした。水上生活であれば、生活排水は床の穴から下に落
とせば事足りた。暮らしの清潔さは維持されただろう。ところが、徐々に陸上に家を建て
るようになったとき、先祖代々の生活習慣をかれらは変えようとしなかったのではないだ
ろうか。村の中に下水システムを設けるアイデアが生じないまま、内陸部における村での
ライフスタイルがそのように固定されて行ったのかもしれない。


スマトラ島の雨季に、ウォレスは食べ物に難渋した。野菜も果実も採れなくなる。せいぜ
いバナナくらいだ。ニワトリも出回らない。原住民はコメの飯だけでその間生きている。
飯に塩とトウガラシだけの食事を一日に二回摂る。これは決して貧困の象徴ではない。単
なる生活習慣なのである。その証拠に、妻子たちは銀の腕飾りや銀貨を束ねたネックレス、
あるいは銀の耳飾りを着けている。

このレンバン地方は昔からアブナイ地域として名が知られていた。旅人はしばしば強奪や
殺害の被害者になった。村の境界線や女がらみの問題で村戦争も頻繁に起こり、住民の生
命が失われた。しかし植民地政庁の行政システムが開始され、監視官が村々を巡回して住
民の不満を聞き、係争を決着させることに努めるようになると、アブナイできごとは徐々
に姿を消して行った。ウォレスが東インドで見聞したオランダ植民地行政の優れた実例の
ひとつがここにもあったのである。原住民の実情に合わせて、公平な法執行を厳格に行う
ことが、東インドの各地で原住民の尊敬を招く結果をもたらした。


ウォレスと助手たちはまたパレンバンに戻り、1862年1月16日にバンカ島に向かっ
た。バンカ島で二日過ごしてからシンガポール行きの船に乗り、1月18日から2月8日
までシンガポールに滞在したあと、ウォレスはイギリスに向かう船に乗った。イギリス人
ウォレスのほとんど8年間に及ぶマレー諸島の旅は、こうして終わりを告げたのだった。
[ 完 ]