「地上の異界、スラウェシ島(1)」(2021年07月12日)

8年の歳月をかけてマレー半島からヌサンタラの島々を巡ったウォレスが大きい関心を抱
いたことがらのひとつがスラウェシ島の自然史だった。スラウェシ島には、その周囲の島
々を含めて世界の他の場所にいない動物が棲息しているのである。そこはまるでおとぎ話
の世界のようだ。

スラウェシ島の周囲を、さまざまな方角から来た深海が取り巻いている。スラウェシ島と
カリマンタン島を隔てているマカッサル海峡は深さが1千から2千メートルに達する。東
側のマルクの島々とも深い海で隔てられている。バンダ諸島とスラウェシ島の間には6千
5百メートルの海溝が横たわっている。スラウェシ島のそんな様相は、スマトラ・ジャワ
・バリ・カリマンタンなどの島々を載せているスンダ大陸棚と対照的な姿をわれわれに示
しているのである。スンダ大陸棚にある島々の間はせいぜい深度50から150メートル
の海で隔てられているにすぎないのだから。同様に、オーストラリア大陸とパプアニュー
ギニア島の間も浅い海で隔てられているだけだ。

スラウェシ島は周辺の島々から断絶し隔離されたエリアになっていた。同じ地球上にあり
ながら、他の土地にある大自然の生態と切り離されていたスラウェシ島で気の遠くなりそ
うな長い歳月の間に何が起こっていたのか、それが解き明かされるときにこのおとぎ話の
世界の実態が明らかになることだろう。


突き出した口の下あごから上に向かって伸びた鋭い一対の牙の他に、鼻からも上に伸びて
一回転するように額に迫るもう一対の牙が生えているバビルサbabirusaがヨーロッパに紹
介されたのは多分、ヴィレム・ピソWillem Piso(ラテン語名Gulielmi Pisonis)が16
58年にアムステルダムで著わしたDe Indiae utriusque re naturali et medicaと題す
るラテン語の書物の表紙に描かれた図が最初だったようだ。その絵の動物は長い間ヨーロ
ッパで、架空の生き物と考えられていた。

この動物は頭部がイノシシのような形をしているが脚は鹿に似ていて、それが現地語でバ
ビルサと呼ばれる原因になったのだろう。ウォレスは1858年にスラウェシでこの動物
をじっくり観察した結果、これに類似する動物は世界のどこにも見られないという結論を
下している。

スラウェシ原生のこの動物は、体長85〜105センチ、体高65〜80センチ、体重9
0〜100キロで、尾は20センチに達する。イノシシは土を掘り起こして食べ物を得る
のに反し、バビルサは果実を食べたり、倒木を割って虫の幼虫を食べる。

雌の出産は年一回で、一回に1〜2頭しか子を産まない。妊娠期間は125〜150日、
赤児は母親がひと月間授乳する。授乳期が終わると子供は森の中で、自力で餌を探す。だ
いたい24年くらいがこの動物の寿命だ。

バビルサはスラウェシ島北部中部東南部に散在しており、絶滅に向かっている種として1
986年に保護動物に指定された。推定残存数はよく分かっていない。頭数が減っている
原因の一つに人間が食用にすることが挙げられている。


やはりスラウェシでしか見られない動物のひとつにアノアanoaがある。野生の牛なのか、
水牛なのか、それとも羚羊に属すのかがいまだに定まらないままだ。アノアは山アノアと
平地アノアに区分されていて、角や身体の大きさに違いがある。平地アノアは体格が小さ
めで尾も短く柔らかい。角は湾曲している。山アノアは身体が大きめで尾が長く、白脚で
角はまっすぐだ。

だがハビタットで分ける方法には反対者が多く、山で見つけたもののなかに平地アノアの
特徴を持つものもおり、また逆も真であるため、区分の基準を変えるべきだという意見が
絶えない。アノアも絶滅危惧種に指定されている。推定頭数は3千頭で、減少の一途をた
どっている。やはり原因のひとつに人間による狩りが含まれていて、人間は皮・角・肉を
欲しがるのである。北スラウェシやゴロンタロのパサルでは、時おりアノアの肉が売られ
ている。[ 続く ]