「スマトラのムラユ食品(3)」(2021年08月02日)

バタムの味覚という触れ込みではあったものの、あんなものは自宅でも簡単に作れるとい
う女房族の話を聞かされて、バタムの有難みがわたしの印象からは影を潜めてしまった。
それでもSop Ikan Batamを看板に掲げている店はいまだに頑張って事業を維持しているよ
うだ。

バタムへ行くと、食事処は中華風の料理を出して来るのがほとんどらしい。海産物の豊か
な土地ではたいていオタコタotak-otakが作られる。オタコタは魚の身をほぐして調味料
と粉を混ぜ、バナナの葉に包んで煮たり焼いたりして作る。おやつにもなるし、飯のおか
ずにもなる。それを食べるときの漬けソースにも地方色が出る。ジャカルタではピーナツ
ソース、マカッサルでは味噌甘味ソースだ。だがバタムではソースを使わない。魚の身に
混ぜた調味料だけで十分に味が付いているからだ。


パレンバンでつとにその名を知られた魚の白身の練り食品にペンペッpempekがある。魚の
バソbakso ikanと似たようなものだが、ペンペッの方はもっと色白できめ細かく、形も大
型で上品な雰囲気を漂わせている。Pempek Palembangという看板は今やヌサンタラの全域
を制覇しているにちがいあるまい。なにしろ、パレンバンっ子は一週間ペンペッを食べな
いと頭痛がして来るという話なのだから、いかにペンペッがパレンバンで毎日大量に消費
されているかが想像できるだろう。

昔はベリーダ魚の肉とサゴ粉を混ぜて練り合わせ、丸い形に作って茹でたり油で揚げたり
したが、昨今では海産のさわらtenggiriとタピオカ粉または小麦粉を使うのが標準になっ
ている。食べ方はチュコcukoと呼ばれる甘酸辣の三味一体となったつけ汁に浸して食べる。

チュコは酢・ヤシ砂糖・小エビ・トウガラシで作られる茶色い汁だ。酢を使わない場合は
タマリンドが使われる。ヤシ砂糖と小エビとタマリンドを煮て水を濾し、トウガラシ・ニ
ンニク・塩をすり鉢で擦り、煮汁に入れて煮立たせるとできあがる。

朝食にペンぺッを食べ、更に茶碗に入ったチュコを飲み干すパレンバン市民もいるそうだ
から、かれらの胃は特別製なのかもしれない。ともかく朝昼晩、ペンぺッなしには夜も日
も明けないのがパレンバン人の暮らしなのだろう。祝い事で客を招いた時にぺンペッがな
いと祝祭の雰囲気が陰ってしまうそうで、主催者は恥ずかしい思いをすることになるから、
ぺンペッを粗末にしてはならないのである。


ペンぺッの歴史は古い。言うまでもなく華人が持ち込んで来たものだ。パレンバンダルッ
サラムスルタン国(1659〜1823年)の時代に王宮でエリート食品として供されて
いた。王侯貴族の暮らしから庶民の食卓に降りて来たのは20世紀に入ってからだと言わ
れている。

サゴはスリウィジャヤ王国の時代から一般庶民の主食になっていて、スリウィジャヤ海軍
の遠征には保存食として大量に積み込まれていた。また魚もムシ河で豊富に獲れるベリー
ダbelidaが使われた。ベリーダは英語でChitalaと呼ばれている魚だ。

ところが、この魚肉練り食品はもっと昔の、スリウィジャヤ王国が滅んだ後の1398年
から1587年までの時代に南スマトラの地に存在していたと郷土史家は主張している。

スリウィジャヤ王国滅亡後に華人がたくさん渡来した。鄭和の航海に随従した華人の中に
もパレンバンに住み着いた者が大勢いたそうだ。華人の移住が盛んになったことで、中国
の食文化がおのずとこの地に移植されたということらしい。かれらが地元の食材を使って
食のバリエーションを地元にもたらしたできごとが、このペンペッという食べ物が物語っ
ている歴史のようだ。ところで、そのペンペッという名称の由来について、また背景の異
なるストーリーが語られている。[ 続く ]