「みつばち(3)」(2021年08月05日)

やはり1860年代にカリマンタンで豊富な軍務経験を持ったオランダ人が書いた小説の
中にも、蜂の巣獲り人の仕事ぶりが描かれている。ぺレラーM.T,H. Perelaerの著になる
「ボルネオの南から北へ」と題するフィクション小説はクアラカプアスKuala Kapuas要塞
守備隊の兵士4人が軍から脱走してカリマンタン島を縦断し、73日後にサラワクに達し
た後シンガポールに逃れるまでの道程を描いたもので、カリマンタン島の風土や文化に関
する著者の詳しい知識がたっぷりと盛り込まれた作品だ。

4人の脱走兵のうちの3人はスイス人ふたりとベルギー人ひとりのヨーロッパ人であり、
年長のプリブミ脱走兵ひとりがかれらを指揮して広大な原生林と戦闘的原住民の中をくぐ
り抜け、1千キロ近い踏破を成功させる物語であり、脱走兵を逮捕するために追跡する植
民地軍とその協力者原住民部隊、また首狩りダヤッDayak族やダヤッ族反乱軍との戦いが
たっぷり盛り込まれた冒険小説になっている。

踏破するとは言っても、行程のほとんどはカリマンタン島中心部山岳地帯まで水路を遡航
するものである。ジュクンjukungと呼ばれる樹の幹をくりぬいた3〜4人乗りの小舟から、
その大型版である40〜50人乗りのランカンrangkanまで、全編に渡って刳り船が飛ぶ
ように水上を疾走する。30人を超える漕ぎ手がランカンを動かせば、当時の蒸気船や高
速帆船ですら追いつくことは不可能だった。

脱走したヨーロッパ人3人はオランダ政府が東インド植民地軍兵員徴募を行っているハル
デルウェイクで雇われ、東インド植民地に派遣されてカリマンタンまでやってきたのだが、
ヨーロッパで聞かされた話と現地で体験した扱いがまるで違っていたことに反発して軍か
らの脱走を決意するという、植民地軍制度の運営に対する筆者の批判も込められているよ
うに見える。


カリマンタン島原住民であるダヤッ族は首狩り行為で名の知られた種族だ。オランダ植民
地政庁は首狩り行為を禁止したので、沿海部の住民は早い時期に首狩りの風習を捨てた。
だが、19世紀半ばごろはまだまだ内陸部まで政庁の威光も届かず、内陸部では昔ながら
の首狩りが盛んに行われていた。

とは言っても、内陸部に住む人間がすべて首狩りを行っていたのでなく、首狩り種族もあ
れば首狩りをしない種族もあって、首狩り族と非首狩り族が併存するという構図になって
いた。誤解してならないのは、別の部落に首狩り襲撃に出かけることをしない部落民も武
器を持ち、部落を要塞仕立てにして、首狩り襲撃に武力で対抗していたことである。しか
も自分たちを殺しに来た首狩り戦士を倒せば、ためらうことなくその首をはねた。

だから少数の野蛮で好戦的な首狩り族と平和を愛好するやられっぱなしのマジョリティ集
団の併存という、現代文明が人類の洗脳に使った観念で当時の構図をとらえてしまうと大
きな間違いを犯すことになる。首狩りを行う集団は種族文化が築いた価値に従ってそれを
行っていたのであり、それを行わない集団もまた自らの価値体系に従ってそれをしなかっ
たというだけのことでしかなく、人間の生命に対する西洋文明の異様なまでの保護姿勢は
アジアの密林の中に存在しなかった。アジア東端を含めて非西洋文明の地では、人間の生
命観あるいは死生観ははるかに淡白なものだったようにわたしには思える。


マンダウmandauと呼ばれるカリマンタンの刀剣は17世紀ごろから世の中で使われ始めた。
そして、その武器としての優秀さがそれ以前のドホンdohongと呼ばれる刀剣を駆逐したこ
とからmakan dohongの意味でマンダウと呼ばれるようになったとのことだ。そのために、
正確にはmandauでなくmandoだとその呼称が不正確である点を指摘する主張もある。

ドホンという言葉は戦場という意味も持ち、男が自分の武勇を高める場としての意味合い
で使われたり、また戦場の覇者である戦士という意味で男の中の男に対する尊称に使われ
たりする。男同士の会話の中で相手をドホンと呼べば、相手を優れた男と認めて敬意を進
呈している姿勢が明白になる。[ 続く ]