「マサカンパダン(1)」(2021年08月09日)

西スマトラ州のパダンへ行ったところ、レストランパダンの看板がひとつも見えなかった。
それでブキッティンギからバトゥサンカルを経てサワルントまで回ってみたのに、レスト
ランミナンの看板もまったく出ていなかった。

中部ジャワのトゥガルの町中を街道沿いに走ってみたが、あそこもワルテッWartegの看板
がどこにも見えなかった。バンドンへ行ってマルタバッバンドンを探したのに、見つける
ことができなかった。なにしろ、ローマへ行ってもスパゲティイタリア―二の看板を出し
ている食堂がひとつもなかったんだから。(笑)


レストランパダンRestoran Padangの名は全国津々浦々までつとに有名だが、レストラン
ミナンRestoran Minangも存在する。何が違うのだろうか?店の営業スタイルも同じだし、
供される料理にも違いがない。だったら同義語なのだろうか?非ミナン人にとってはほと
んど同義語なのだが、ミナン人にとっては違うものなのだそうだ。

パダンという町の形成の歴史を見ればその理由が解るだろう。パダンの町を作ったのはミ
ナンカバウ王国でなく、オランダ人だったのである。内陸高原地区をベースにしたミナン
カバウ王国にとって、パダンの町は外来者の町だったということだ。オランダ人が開いて
オランダ式の市政が行われたパダンの町にヌサンタラの各地から諸種族の人間がやってき
て経済活動を営んだ。ミナン人ももちろん、例外ではなかった。

パダンの町は本来ミナンカバウ王国の領土であり、最初は高原部に住むミナン人がランタ
ウrantauして集落を作った。ところがアチェの南進によって支配権が奪われた。アチェと
ミナンカバウ間のそんな状況を利してオランダ人が17世紀にアチェ軍現地守備隊を追い
払い、そこを奪い取って拠点にしたという歴史になっている。

だからミナン人がレストランを開けば、かれらがそれをレストランミナンと呼ぶ方が気持
ちの上ですっきりすることは大いに納得できる。更に自分のアイデンティティを深くイス
ラム教に置いているかれらは、ミナンの地に開いた食事処にやってくる同胞ムスリムのた
めに、たいていレストラン内に礼拝所を設けている。レストラン事業と自分の社会生活が
混然一体となっているのがレストランミナンであるという講義をわたしはミナン人の友人
からミナンの地にあるレストランミナンで受けた。

ただまあ、パダンの町中に開かれるレストランに礼拝所を設けても実用性はあまりないだ
ろうから、投下資本の効率的運用を目指す事業者は多分そんなことをしないだろう。なぜ
なら、町中のいたるところにイスラム礼拝所があるのだから。そこだけを捉えて、だから
パダンの町中のレストランはヘビーな商業主義者なのだという見解は少々バイアスが強す
ぎる気がする。

ともあれ、その伝で行くなら、レストランミナンはミナンカバウの高原地帯にあるレスト
ランパダンがその名で呼ばれているのだという理解になって、パダンを発進地にして全国
に広がったレストランパダンは、たとえ事業主がミナン人でもパダンの名を用いていると
いう捉え方の方が実態に近いように思われる。


レストランパダンが全国に広がったのは、ミナン人にランタウの習慣があったためだ。ラ
ンタウというのは、故郷を離れて異郷で生活し、成功者になって故郷に錦を飾る行動を賞
賛する価値観に支えられたものだ。どんなに貧しくとも、一家が全員寄り添って扶助し合
いながら一生を終えるのを真善美とする価値観とは違っている。

ランタウの価値観を端的に表現するミナンカバウの諺に、dimana bumi dipijak disitu 
langit dijunjungというものがある。「どこの土地で立とうが同じひとつの天を頭上に頂
くのだ」というイメージをわたしはその言葉に感じる。[ 続く ]