「マサカンパダン(2)」(2021年08月11日)

全国津々浦々、辺鄙な土地にランタウしたミナン人が食べ物商売を行った。ユダヤ人も華
人も世界中の人間が同じようなことをしてきた。食べ物商売をすることによって、ランタ
ウ先の社会との接触の間口が広がるのだから、そこの社会に溶け込んでいくための巧みな
戦略だと言えるだろう。そんな先輩を頼って、ミナンの地から後続のランタウ青年がやっ
てくる。後続の青年たちはレストランで寝泊まりして店の仕事を手伝いながら自分の新し
い進路を探り、別の仕事先や新規事業を興して新たな後続青年にレストラン内の自分の場
所を譲る。かれらの中に、その近辺の土地でレストランパダンを開く者も少なくない。つ
まり各地にできたレストランパダンはレストラン業の実習コースの役割を果たし、その成
果がレストランパダンの全国展開という形を作り出してきたと言える。

あるレストランのオーナーが語った懐旧談によれば、かれのランタウは叔父が遠くの土地
で開いたレストランに転がり込むことで始まった。最初は皿洗いの手伝いをした。数カ月
後に飲み物作りをやらされ、次いで客が食べ終わったテーブルのあと片付け、そのあと客
のテーブルに料理を運ぶ仕事で、これは客が何をどれだけ食べたかを判断して請求金額を
決める仕事が含まれている。そして最後はレストランパダン従業員の最高職である厨房の
料理人が総仕上げになり、それを卒業して自分の店を持ったそうだ。


ミナンカバウの歴史を読むと、ミナンカバウ族の中心地であるタナダタルTanah Datar、
アガムAgam、リマプルコタLima Puluh Kotaの一帯から6世紀ごろにミナン人のランタウ
が始まったと書かれている。スマトラ島西海岸部は、北はアチェから南はブンクルまでの
海岸沿い、更にブキッバリサンを越えてスマトラ東海岸部の北はアサハンからリアウ〜ジ
ャンビまで、そしてマラッカ海峡を越えてマラッカの北にあるネグリスンビランまで、ミ
ナン人のランタウ先は広がって行った。古い時代のランタウは個人の意志よりも集団の植
民や通商という面が強かったようだ。とはいえ、一定期間定住したとしても、かれらと故
郷との関係が途切れることはなかった。

それがより個人的な動きに変質してランタウ先で稼ぐことを基本的な動機にするようにな
ったのは19世紀ごろからで、スマトラ島海岸部の町々が経済発展を強めるようになった
時期に合致している。オランダ植民地政庁が道路と通信のインフラ建設に力を注いだため
に、ミナン人のランタウにそれが大きく貢献したのは間違いあるまい。

ミナン人のヌサンタラ各地へのランタウは1950年のインドネシア独立主権完全承認の
あとで膨れ上がって行く。インドネシア共和国の首都が1950年にヨグヤカルタからジ
ャカルタに戻されたとき、国内行政機構に膨大な公務員需要が起こった。その需要を埋め
るために、高い学歴を持つ諸種族が続々とジャカルタに移住して来た。バタッ人、トラジ
ャ人、ミナハサ人そしてミナン人もその中にいた。

その後行われたインドネシア政府によるオランダ系企業の接収が、また国有企業社員とい
う知的労働力の莫大な需要を開いた。こうしてミナン人のランタウは量的な厚みを増して
いった。1958年になってPRRI反乱鎮圧戦争がミナンの地で発生し、政府軍がミナ
ンの諸都市を制圧したとき、ミナン人は行政官僚の職から閉め出され、またさまざまな行
動の制限を受けて食って行くことに困難を感じるようになった。そんな故郷で苦労しなが
ら露命を繋ぐ必要はない。かれらが異郷にランタウする動機がまた増加した。

1930年の植民地政庁が行ったセンサスによれば、西スマトラ住民中の21.1万人が
ジャンビ・リアウ・東スマトラ・マラヤ半島に散らばって居住していた。インドネシア共
和国独立後はジャワ島各地への移住が増加した。1971年にはミナン族の44%がラン
タウしていて、その年のミナンカバウ在住者人口は278.8万人いるというデータが示
されていることから、ミナン人ランタウ者は2百数十万人に上っているという結論が得ら
れる。1962年にジャカルタ在住のミナン人は6万人と推定されたが、1990年には
15万4千人になっていたそうだ。[ 続く ]