「ウシ ウシ ウシ(1)」(2021年09月06日)

バリに住みはじめたころ、自分の印象にある牛の鳴き声とバリ牛のそれがあまりにも違っ
ていることに驚かされた。腹の底を共鳴させるあの印象的な牛の声でなく、バリ牛はもっ
と軽くかすれた声で鳴いていた。まあ、バリに住むまで牛がいる風景とは無縁の暮らしを
生まれた時から続けて来たのだから、わたしの持っている牛の鳴き声の印象が何から作ら
れたのかは明白でないわけだが、牛が身近にいる環境というのは慣れない者に違和感をも
たらす方が多い。

特に夜中に村の中を歩くのは、街灯がないだけに、路上に落ちている牛の糞を踏みがちで、
リスクが高かった。ところが、十年間で村の中から牛がまったくいなくなってしまった今
も、糞を踏むリスクだけは続いている。ただし昨今路上に落ちている糞は犬のものだ。1
970年代にバリ島に遊びに来て、ホテルの周囲に犬がめったやたらといるのに驚いたも
のだが、あれから半世紀が経過した今でも、バリのこの村の中では家屋の数よりもっとた
くさんの犬がうろつき回っている。

村の中の街灯もいまだに設置されないままではあっても、各家が外塀に設置している個人
負担の電灯が煌々と周囲を照らしているので、夜の暗さは大違いになっている。


Bos sondaicusという学名のバリ牛はバリ島の原生種だ。古くからバリ島に棲息していた
野牛Bibos bantengが飼いならされて紀元前3千5百年ごろからバリ牛になったという話
だ。長い歴史の中で、バリ牛はバリ島農民にとっての重要なパートナーになっていた。農
耕作業と耕作用肥料の助けを農民は牛から得ていたのである。

バリ牛は気候の変化にあまり影響されないで生きている。そのおりおりの気象に応じてで
きる食べ物をなんでも食べて生きていくし、乾燥状態がひどくなっても健康を損なうこと
がないのは、体内に蓄える水分の量が他の牛よりも多いためだそうだ。

1800年代にバリ牛がオーストラリア北部に放牧されたことがある。1983年に発表
されたデータによれば、妊娠適齢期の雌バリ牛3,554頭が一年間に1,999頭を出
産した。これは生産数だけを数えたもので死産は含まれていない。雌バリ牛は平均して生
涯に12頭の子供を産む。

そんな旺盛な繁殖力のために19世紀のオーストラリアでは頭数が急増し、自然環境に悪
影響が及んだために結局、現地行政が企画を取りやめた。そんな事例があったのなら、バ
リ牛を全国で増やせばインドネシア政府の牛肉政策から大量の輸入を減らすことができる
ように思うのだが、バリ牛はバリ州政府の政策アイテムになっていて、州外への販売には
クオータ制が採られている。なにしろ、1960年代ごろまでバリ牛は香港・シンガポー
ル向けの優良輸出商品だったのだ。それが今では、州政府が囲い込む生き物になってしま
った。州内でのバリ牛飼育は土地面積の関係で75万頭が限界と言われている。


バリ島でのバリ牛飼育は、牧場や大規模飼育場でなく農家や田舎の一般家庭が投資活動と
しての肥育を行うのが普通の姿だった。仔牛を買い、毎朝近辺の草葉が繁った場所に連れ
て行き、夕方になると家の庭に連れて帰るのが肥育者の日課で、家の庭に牛小屋などはな
く、牛は家屋の壁の傍らでゴロゴロしているのが普通だった。

わたしの住んでいる村でも、農業をしている住民はほんの一握りしかおらず、たいていが
非農家だったが、農家でないのに牛を飼っている家は何軒もあった。そういう家が朝夕牛
を連れて集落内の道路を歩くわけだから、路上に牛糞がゴロゴロ落ちるのも当然だ。

仔牛を買って何年も肥育してやれば、身体が数倍大きくなったとき、買値の数層倍で売れ
る商品になる。飼料は自分の住んでいるエリアの草葉を食わしているのだから、肥育コス
トは限りなくゼロに近いのではあるまいか。

そんなバリ牛のいる風景がもう何年も前にこの村から消えた。草葉の場所が減少したこと
は確かだが、この界隈ではそれほど極端に減ったわけでないから、自然環境の変化のせい
とは思えない。あのころは壮年だった飼主たちが今では老年に達していて世代交代が進ん
だはずであり、若い世代が牛を飼うという投資活動を嫌った可能性をわたしは感じるので
ある。[ 続く ]