「臼と杵に想う」(2021年10月22日)

ライター: スラカルタインドネシア芸術院舞踊科卒、プルナワン・アンドラ
ソース: 2013年3月5日付けコンパス紙 "Lesung, Maknamu yang Berlalu"

インドネシアの農業文化にlesungという道具がある。モミ米gabahを米粒berasに変えるた
めの伝統器具であり、昔ルスンはどこの家にもあった。この道具は長さ2メートル、幅5
0センチ、深さ40センチくらいの船形をしている。その船底に置かれたモミ米が先端の
尖っていない長い棒のaluで搗かれて皮sekam/merangがはがれ、コメになる。

ルスンは単なるひとつの道具以上のものであり、人類学上で一個のエンティティを成して
いる。インドネシアの民衆一般、中でも特にジャワ人、は主食であるコメの飯の元になっ
ている稲を生活から切り離すことができない。

さまざまな効用を人間にもたらす繁殖の女神デウィスリの身体の一部の具現化が稲である
と考えられていて、実際に籾殻sekam、種皮dedak、胚芽bekatul、胚乳beras、稲穂の茎
merang、稲の茎(わら)damen/jeramiのすべてが人間にとって有用性を持っている。

古い昔、ジャワの村々では毎朝、日の出前にアルの先端がルスンの船底を打つリズミカル
な音が流れた。主婦たちが家族のために朝食の準備をしているのである。その習慣のおか
げで、ジャワの神話にあるロロ・ジョングランがバンドン・ボンドウォソの毒牙にかかる
のを免れるエピソードが生まれた。

アルがルスンを打つ音は朝を告げる。それにつられてニワトリが鳴き出し、わらが焼かれ
る煙が流れればもう夜が明けたとだれしもが思う。おかげでバンドン・ボンドウォソはロ
ロ・ジョングランを妻にすることができなかった。


< リンガ=ヨニ >
神話の世界をはるかに超えて、ルスンは支配と被支配の関係を含めたアイデンティティと
精神性に対する関わり合い方のシンボルにもなった。長いお椀のような形のためにルスン
はヨニ、つまり女性器の象徴に位置付けられた。先端の尖っていない杖状のアルとルスン
の組合せは、社会を構成する核となる、男と女、オスとメス間の調和のとれた関係を描く
たとえに使われた。

ラドハル・パンチャ・ダハナの言葉を借りるなら、大陸型思考においてこの自然の摂理の
シンボルは、男が優位に立ち女が服従的位置を占める形の支配関係という論理性を持つも
のと受取られた。アルが上から下にルスンを打つ形態が男性優位のシステムに関するひと
つのアレゴリーとされたのである。

アル=ルスン作業の中で形成されるリズムはアルを搗くひとたちの精神的合意によって生
じるものであり、それは同時に人間と自然との間に作られた精神的合意でもあった。それ
は心弾ませる独特の音楽であり、経済・社会・文化そして精神まで織り込んだ諸活動を統
合させるものでもあった。

アル=ルスン作業がまだ行われていれば、どんなに美しく、気持ちよく、心休まるものに
なっていたことか。アルを搗いている間に、作業者たちの間で会話・ふざけ合い・物語な
どが行われた。感情的な親近感や心理的一体感が村落内での生活環境を暖かく友好的なも
のにしたのである。


< 時代は変わる >
時代の変化から免れることはできない。産業や合理主義が、ハードで、残酷で、強制的で、
圧迫的で、それどころか殺人的なあり方でこの海洋国家にもやってきた。再びダハナの理
論を借りるなら、産業主義と合理主義は地理的・経済的・政治的分野だけでなく、文化的
分野にまで押し寄せて来た。

抑圧的威圧的な大陸型行動はこの調和のとれた穏やかな国から本性を忘れさせたばかりか、
民族全体と個別の種族に新文明を奉じさせるのに成功した。その時期に海洋文化の伝統的
道具類は形が崩れ、価値が低下し、絶滅すら起こった。ルスンとアルもそうだ。モダン農
法は農民に機械を使うように迫った。水田を耕すことから始まってモミを脱穀し、コメに
変えることに至るまで。

テクノロジーは廉価で効率が良く、そして使いやすいという話だった。そうかもしれない。
しかしテクノロジーは音楽を作り出すことができない。ヌサンタラの民族が何千年もかけ
て培ってきた人間関係の温もり、ふざけ合い、社会生活面での調和なども。音楽は汚染に
取って代わられ、水田は資本家に買い上げられ、農作物の価格は仲買人の言いなりになっ
た。農民はマージナル化に陥った。

今やアルとルスンは放置され、静かに朽ちて腐りつつある。ルスンはアルの棺になってい
る。過去百年超の間にヌサンタラの諸種族の文明と慣習がたどった道程がそれだ。今のこ
の時代をわれわれの子孫に物語る者がいるだろうか?われわれ自身がその原因のひとつだ
ったことをわれらの子孫に教えるために。