「ヌサンタラの馬(14)」(2021年10月25日)

1998年の通貨危機と政変によってインドネシア経済が崩壊したと言われた時期でさえ、
北スラウェシ州の競走馬販売は年間2百頭が維持された。そのころ、レースで良い実績を
あげた優良馬は一頭の価格が3〜4千万ルピアだが、まだ実績を持たない馬の価格は5百
万から2千5百万ルピアの大きな幅の中で取引されている。送り出されるのは主にジャワ
島であり、全国馬術連盟主催の種々の催事に使われた。

全国馬術連盟によれば、使われる馬の6割がミナハサ馬だそうだ。それらの馬は1982
〜85年にオーストラリアの優良馬と交配させた子孫であり、特に競走馬としての人気が
高い。オーストラリアの優良馬20頭を政府が北スラウェシ州に支給して、競走馬飼育に
慣れている畜産農家が持っている優良メス馬と交配させた結果が毎年年間2百頭の競走馬
販売を実現させているとのことだ。


南スラウェシでは、伝統ある競馬の催しが20年間ストップした。競馬は賭博の場であり、
ハラムであるという論理がその原因だったが、2006年になってマカッサルで再開され、
マカッサル市内カランタンブン競馬場は、やっと本来の役割を取り戻した。中でも、伝統
的な少年競馬の復活は父親が息子に抱く期待の実現であり、馬と共に育った父親たちを喜
ばせたことは想像に余りある。

競馬に出場するためにジネポントから来た14歳と16歳の少年は、ひと月前から特訓を
受けて再開初レースに備えたと語った。ふたりとも自宅で馬を飼育している家庭の子供で、
競馬の作法は伝統的な教育方法で教えられたそうだ。一番重要なのは度胸であり、落馬を
怖れないことだ、とふたりは述べている。

 
皮肉にもスラウェシ島で頭数が最下位になっている東南スラウェシ州も、昔は馬が地上に
満ち満ちていた。その名残はムナMuna県に一番強く残されている。グーグル日本語版では
ムナのことをミュナと書いているが、Munaという綴りはインドネシア語でムナとしか発音
されない。ミュナという音を示すのであれば、インドネシア語ではmyunaと綴られるのが
正書法だ。

インドネシアの地名に関して、日本語グーグルは原音から逸脱したカタカナ表記の多さが
目に余る。インドネシア語を知らない日本人はグーグルの名前を信用して間違った地名を
覚えてしまうだろう。何のためにこんな混乱を起こそうとしているのだろうか?

スラウェシ島東南半島部南端にはムナ島とブトンButon島が寄り添って浮かび、ブトン島
の更に東方にワカトビ群島が散らばっている。昔、オルバ期にワカトビの海洋観光プロモ
ーションが盛んに行われ始めたころ、日本人サーファーを狙って「若跳び」などという名
前を付けたのかとわたしは下司の勘繰りをしてしまった。あとになって、その言葉はワギ
ワギWangi-wangi、カレドゥパKaledupa、トミアTomia、ビノンコBinongkoという主要四島
の頭字語であることを知って内心で赤面した記憶がある。

ムナ県はムナ島の北部中部とブトン島側対岸の一部で構成されている。その県庁所在地ラ
ハから南に10キロほど離れた場所にたくさんの壁画が描かれた洞窟がある。10ある洞
窟の中でもっとも有名なのがLiang KaboriとLiang Metandonoだ。liangはgoaと同義で使
われている。これと類似のものとして、南スラウェシ州マロスの洞窟群が有名だ。

ムナ族の言葉でカボリとは「書く=描く」を意味しており、メタンドノは「狩る」を意味
している。ムナ族の言い伝えには、リアンカボリが女の洞窟であったことを推測させる話
が多い。

4千年前に描かれたとされているその壁画はいまだに色鮮やかに残っており、当時のひと
びとの暮らしのありさまをわれわれに見せてくれる。4千年前のムナ族の祖先は農耕し、
家畜を飼い、狩猟し、戦争し、自然環境を克服して船で海を渡っていた。その中になんと、
ひとが凧揚げをしている姿もある。

壁画に描かれた家畜の中に馬がおり、人間が馬に乗っている絵も見出すことができる。ム
ナ島には太古の時代から馬がいて、人間と馬の関係がそんな古い時代から続けられてきた
ことがそこから十分に想像されるのである。[ 続く ]