「ヌサンタラの馬(15)」(2021年10月26日)

ラハから南西に25キロほど離れた内陸のラワ郡ラトゥゴ村が県内最大の馬飼育地区だ。
この村にあるいくつかの家が多数の馬を飼っており、馬は農耕の収穫物を運ぶのに使われ
ている。2010年のデータでは、ラワ郡の馬は165頭、ラトゥゴ村では3家族が40
頭を飼っている。

ムナ県でも少年競馬は昔から盛んに行われて来た。ラワ郡には郡や県レベルでの競馬が昔
から行われて来たコースがある。ところが1980年代に入ってから競馬離れが起こって、
競馬がムナから姿を消した。ラトゥゴ村に住むラ・オデ・アブジナさん50歳は、かつて
のチャンピオンだった。県大会で三回続けて優勝したことがある。更に州都クンダリで開
催される州レベルの大会にも出場している。

「わたしゃ12歳から競馬に出場して、最後に出たのは1987年でした。それ以来、競
馬は開かれなくなりました。」そう語るアブジナさんは県で有数の馬の調教師だった父親
のカリムさんから馬に関するすべての教育を受けた。カリムさんは村の総数40頭のうち
の20頭を所有している。アブジナさんの思い出話によれば、昔は結婚のときの花嫁花婿
の行列は必ず馬に乗っていたし、また野生の牛や水牛を捕まえに行くときも、馬に乗って
出かけるのが当たり前だった。

馬をたくさん持っている家は村の有力な一族であり、それらの有力な一家の家系をたどる
と、たいてい先祖のどこかで枝分かれした一族同士であることが明らかになった。王国時
代には王族貴族がたくさん馬を所有し、子孫が分家するときに馬を分け与える習慣があっ
たことから、現代のムナで馬をたくさん飼育して日常生活を馬とともに送っている家は親
戚関係にあって当然なのだそうだ。


このムナ県にヌサンタラで珍しいアトラクションがある。闘馬がそれだ。ムナ県の闘馬も
シュクランの祭事や賓客への娯楽として、昔はあちこちで行われていた。ところが、19
70年代に入って馬の頭数が減少し、きわめて稀な催事になってしまった。ラワ郡ラトゥ
ゴ村だけが途切れることなく闘馬の伝統を今に伝えているのである。

闘馬はムナ語でpogiraha adharaと言う。地元のひとびとはインドネシア語でperkelahian 
kuda(馬喧嘩)と呼んでいるが、外部者はadu kudaやpertarungan kudaなどと呼ぶひとが
多い。

ポギラハアッハラの行事がいつの時代に始まったのか明らかでない。少なくとも、ムナ王
国の時代にはこの行事が頻繁に行われていたそうだ。ムナ王国が興ったのは1210年で、
王国は1956年まで続き、その年に解散して領地領民はインドネシア共和国に編入され
た。王家はいまでも続いており、第27代ムナ王が当主として現存している。もちろん、
現在のムナ王は支配する領地も人民も持っていない。ヨグヤカルタのスルタンを含めて、
インドネシア全国の王たちは今でも王家を保っているものの、王国を持たない王様たちな
のである。

王国時代に王族貴族たちが馬をたくさん持ったのは、馬の多さが持ち主の権勢を意味した
ためだ。王族貴族たちは馬を乗物として使い、更に狩猟や戦争のための資材にした。だか
ら子供を分家させるときにはたくさんの馬を付けてやった。

王国時代には赤児の髪切り、娘の深窓入り、植付けの季節、収穫期などの民衆の祝祭や賓
客のための慰安として闘馬が行われた。[ 続く ]