「ジャワ人の食コンセプト(前)」(2021年10月28日)

ライター: ジャーナリスト、アンドレアス・マルヨト
ソース: 2007年12月14日付けコンパス紙 "Orang Jawa Tidak Kenal Konsep 
Ruang Makan"     

ジャワ人の家を訪問するとき、その家の食堂にオートバイや洗濯物、あるいはモミ米が積
み上げられているのを見て驚いてはいけない。一般論として、ジャワ人の家屋には食堂と
いうコンセプトがないのだ。昔のジャワ社会における住宅設計者は、食事をするための部
屋を特別に用意することをしなかった。接客する空間、食事する空間、家族団らんのため
の空間は渾然一体となっていた。

農業文化が朝食の場を水田や畑にした。農民は太陽の陽射しに焙られる前に家を出なけれ
ばならない。当然、家で朝食を摂ってから、という悠長なことは言っていられない。18
17年のHistory of Javaの書にラフルズはそのような解説を記している。1890年代
にジャワを訪れたアウグスタ・デ・ヴィッツは自著Java: Facts and Fanciesの中で、朝
ジャワ人は川へ行き、水浴してから朝食を摂る、と記している。

ジャワ文化専門家のスマラン国立大学トゥグ・スプリヤント教授は、ジャワ人は食事のた
めの部屋という考えを持っていなかったと語る。「農業生活の習慣がジャワ人に、食事を
するための部屋というコンセプトを持たせなかった。朝食ばかりか、昼食でさえ水田で食
べていた。田畑で食べるのが普通の生活になると、家で食べるときの姿勢も普段の癖が出
る。足を高く上げて座り、スプーンなど使わずに食べ物を手づかみする。現代でも、ジャ
ワの農民はいまだにそんな様子で食べている。」


食堂を持たない農家の例は、ヨグヤカルタ特別州バントゥル県で容易に見出すことができ
る。家屋設計者は食事のための部屋を家の中に設けなかったのだ。それどころか、料理を
並べて置くためのテーブルすら、家の中にないケースもある。家族の一員はだれでも、食
事したければ台所で飯とおかずを皿に載せ、好きな場所にそれを持って行って食べるので
ある。

変化は、郡役場が置かれている町で起こった。家の中に食事をするための場所がしつらえ
られ始めたのである。最初は独自の部屋でなく、台所につながっているスペースに食事の
場所が設けられた。台所とは仕切られていない。そのスペースが十分に広ければ、そこに
はオートバイやモミ米など食事に関係のない種々の物が置かれ、ひもが張られて洗濯物が
ぶら下がる。その典型例はヨグヤカルタ特別州グヌンキドゥル県ポンジョン郡の一軒の家
だ。

料理がそのスペースのテーブルの上に置かれるのは、ほとんど客人のためだった。普段は
家族のすべてが自ら台所に入って皿に飯を盛り、コンロに掛かっている鍋からおかずを取
り、好きな場所に向かう。テーブルに行って食べる者もあれば、台所の片隅の縁台に腰か
けたり、あるいはどこかの床に座って食べる。

客人があると客に食事をふるまうが、客人だけをテーブルに着かせて食べ物を供する。家
の主人は相伴どころか、客を放り出して、別の場所で何かをしている。他人の家を訪問し
て、自分ひとりがその家の誰にも相手にされないまま食事だけしているという事態を平常
心で受け入れられるひとは少ないだろう。しかしジャワ人にとっては、それが客人への最
高の尊敬を示す方法になっていた。される側の感情とはまるで関係なしに。

家の主人が同席して話し相手になるが、相伴はしない、というケースもある。ジャワ式最
大リスペクトよりもまだ客人の感情は救われるかもしれないものの、自分が食事するとき
に同席の人間が何も食べないという状態に平気でいられるひともあまり多くはあるまい。
客の自分には食事をふるまうのに、家の主人は何も食べようとしない。これはいったいど
ういうことなのか?ジャワ農民にとっての食事コンセプトが特異なものであったのを、わ
れわれはその現象に見出すことになる。


更に時代が進んで、台所と切り離された食堂が住居の中に設けられるようになった。食堂
にはもちろん食卓が置かれ、食器棚があり、食堂としての機能は整えられているものの、
単にそのような形にしつらえられただけ、という雰囲気がまとわりついている。食卓は料
理を並べ、必要にして適正な食器類が置かれる機能を十分に果たしているが、単にそう扱
われているだけで、それ以上のものになっていない印象が避けられない。

この段階で、一家のための食堂は家を建てるときに当然設けられるべきものとなった。食
堂には食卓が置かれてテーブルクロスが掛けられ、食器も完全なセットが常備された。フ
ォークが使われるのは普通の光景になった。[ 続く ]