「ジャワ人の食コンセプト(後)」(2021年10月29日)

大都市では、食堂は台所と客間の間の位置に仕切りのないオープンスペースの形で設計さ
れ、食卓が客間から丸見えになるスタイルで設けられる形も増えて来た。都市部の住宅用
地の制限もあっただろうが、ライフスタイルの変化という面も見落とせない。

暮らしぶりがオープンになる傾向は、世間に自分の暮らしぶりを見せようとする生き方を
生むのである。最新流行を取り入れていることが価値を持ち、食堂のデザインから食卓の
様子やそこに置かれた料理の内容が家の主人の評価を左右する。

ジャワ人の多くも住居内に食堂を設け、食事の礼儀作法も学んだとはいえ、伝統の中に培
われて来た農民の自由な作法への郷愁が心の中でせめぎ合う。食卓に着いて食事用道具類
を使いこなしてはいても、時おり、自由な雰囲気での食事への憧れがかれらをカキリマ屋
台に向かわせる。スプーンを使わずに手づかみで食べることの快適さも捨てがたいものが
ある。まったく自由な姿勢と自由な作法で食事ができる伝統的な食堂や食べ物ワルンから
切り離されることに耐えられないのだ。

腹を満たすという生理的欲求への対応行動でしかなかった伝統的な農民の食事スタイルか
らなかなか離れられないでいるジャワ人の状況は、かれらが食卓・食堂・団らん・礼儀作
法といったコンセプトを持つ食事への移行の中途段階にあることを示している。かれらが
通り過ぎなければならない道程は、決して短いものではなさそうだ。

食事の際の姿勢がしばしば、昔ながらの乱れた形を示すひともいる。自宅の中に設けた食
堂で食事することに依然として溶解することのない違和感を覚えるひともいる。食堂は住
宅設計の標準要素であり、食卓があって料理が並べられる場を持つのが現代人の標準ライ
フスタイルであるという理解は持てても、自分の生き様にその知識がしっくりと位置付け
られていない。


ジャワ農民に食事コンセプトの変化を最初にもたらしたのは、ヌサンタラの支配者になっ
たオランダ人たちだった。行政高官・地主・農園主などになったオランダ人は豪邸を建て
て家族と一緒にそこに住み、ヨーロッパのライフスタイルを実践した。近在のプリブミが
大勢その豪邸に雇われて召使いになった。

トアン一家の食事を作る手伝いをし、食堂でテーブルマナーを駆使して食事する姿を目の
当たりにした召使いたちが、ヨーロッパの料理・飲食物・食事作法などを覚えてプリブミ
社会に持ち帰った。しかし、それがプリブミ社会で即座に模倣されたわけではない。プリ
ブミ社会がその実践を真似するためには、それを行わざるを得ない要因が加わってはじめ
て広がりを見せることになる。

19世紀に入って植民地行政のシステム化が進められ、中下級官僚にプリブミの登用が増
加し、さらに官僚予備軍の育成のために学校教育が行われるようになると、プリブミ社会
にヨーロッパ式ライフスタイルが広がり始めた。もちろんそれはプリブミ上流階層で起こ
ったことだ。プリブミ中級官僚がオランダ人上級官僚と私的な交際を行うのは当然のこと
であり、プリブミが上司のオランダ人を自宅に招いて接待することがなしでは済まない。
中級官僚になったプリブミ上流層の抱える召使いがヨーロッパ式ライフスタイルの知識を
持つようになれば、プリブミ社会での知識量はマッシブに広がる。

フランセス・ハウダはその著Dutch Culture Overseasの中で、オランダ人のライフスタイ
ルがプリブミの生活様式に影響をもたらしたことを指摘しており、ジャワ社会がオランダ
人の食堂と食卓の作法を模倣するようになったプロセスはそこに端を発しているように思
われる。


トゥグ・スプリヤント教授もそれを肯定する。「住居内の食堂と食事の作法についてのコ
ンセプトはオランダ人に影響されたものだ。そのときにジャワ人は食堂というものをはじ
めて知った。」

だが、学んだからすぐに模倣したわけでもないし、百年以上もの間、それを身に着けよう
と努めたわけでもない。現代ジャワ人ファミリーの中にも、テーブルに着いて一家団らん
の食事をするときに、足を椅子の上にあげて座るひともいる。一部のジャワ人にとって、
自宅内の食堂で西洋式の作法に従って食事することは自由な生き様を拘束する苦痛の場か
もしれない。[ 完 ]