「ヌサンタラの馬(17)」(2021年10月28日) スマトラ島で、馬にまつわるもっとも有名なものはガヨGayo競馬だろう。ガヨという語は アチェ中部高原地方の先住民ガヨ族に端を発しているようだ。ガヨ族は現在の中部アチェ 県を中心にしてブヌルムリアとガヨルエスの三県ならびにその周辺諸県の一部に勢力を張 った。一時期、どこのコーヒーショップに入ろうと、各店の標準コーヒーとして出されて いた酸味の強いアラビカ豆のガヨコーヒーがこのガヨの産物である。 本論の冒頭にも書かれているように、スマトラ島でもスリウィジャヤ王国が遠い昔から馬 を用い、またミナンカバウやバタッの地でも西洋人がやってくる前の時代から既に競馬が 行われていたことから、馬がいる風景はスマトラ島でも当たり前のものだったようだ。 1511年にポルトガルがマラッカを奪った後、アチェとポルトガルの確執が泥沼に陥っ て戦争状態が継続した。1523−24年、マラッカのポルトガル軍がアチェに進攻した が撃退された。1537年、アチェ軍のマラッカ要塞攻撃が行われたが、失敗した。 その後も雌雄が決しないままに交戦がたび重なり、アチェはポルトガル追い落としの決定 打にしようとして、1567年にトルコのオスマン帝国に軍事支援を求める使節を派遣し た。そのとき、アチェはトルコの属国になることを申し入れたが、トルコ側はそれを断っ ている。ともあれ、イスタンブールはアチェの要請に応えて1568年にオスマン帝国軍 戦闘部隊と技師ならびに軍需物資を15隻の小型軍船および2隻の大型軍船に乗せてアチ ェに向かわせた。 船長兼軍指揮官、兵器専門家、戦闘部隊、大小砲弾や斧・スコップなどの武器兵器火薬や 軍需物資がその17隻の船団に乗ってアチェに到着し、最前線に投入された。やってきた トルコ人たちはアチェに家庭を作って子孫をアチェに残した。戦死を免れた兵隊たちも土 着化したそうだ。 おかげでアチェ軍は強化されて、スマトラ島での南下征服戦には大いに効果があったもの の、対マラッカの戦争は決着が付かないまま、ずるずると歳月を重ねる始末だった。こう して1607年に不世出の英傑スルタンイスカンダルムダの登場となるのである。 軍用としては馬よりも象の方が印象深いアチェスルタン国でイスカンダルムダは、象部隊 の更なる大型化をはかる一方、ペルシャからたくさんの馬を購入して騎馬兵団を充実させ、 軍隊の機動力により大きな運動性を付け加えさせた。いくらスマトラ島が象の宝庫だとは いえ、象部隊と歩兵だけの戦争ではスピードにあふれた軍事行動で敵軍をかく乱させるこ とはできるまい。 アチェの宿敵、ポルトガルマラッカは結局1641年にVOC軍によって陥落し、それ以 後マラッカは静かなオランダ人植民地に変化して行ったのである。 西スマトラのミナンカバウの地に起こったパドリ戦争でも、パドリ軍は大規模な騎兵部隊 を擁して戦争を行った。ミナン社会で馬を扱う歴史がそれ以前になければ、何千人もの騎 兵部隊をパドリ軍が持つことなどありえなかったように思われる。 パドリ戦争については拙著「8人のトラ」 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-51EightTigers.pdf をご参照ください。 ガヨ馬は2014年に農業大臣によってインドネシアローカル種生殖資源に認定された。 その解説によれば、ガヨ馬は18世紀以来、ガヨの地に適応して人間と共に生活して来た 経済資源であり、代々競走馬として飼育され、民衆の暮らしの一部と化しているとのこと だ。 モンゴル種とサラブレッドの遺伝子が混じっているガヨ馬は、オスが体高110〜129 センチ、メス110〜117センチ、体重オス225〜273キロ、メス215〜235 キロで、短く細い体形に短い頭と頑丈な首が載っている。尾は長く、後脚の踵に達する。 性質は穏和である。[ 続く ]