「ヌサンタラの馬(18)」(2021年10月29日) ガヨ族の王国は11世紀までさかのぼることができる。プルラッPerlak王国時代に、ガヨ の高原に王朝が興ったようだ。ガヨ族は高原部を領域にし、北海岸部のアチェ族と併存し た。ガヨ族は昔から馬を使う生活を営んだ。重量物の運搬や水田を鋤くのに馬が使われ、 収穫された米は馬が運んだ。 若者たちはその馬を乗りまわし、速さを競って遊んだ。王国時代から毎年8〜9月の収穫 期には祭りの一環として競馬大会が開かれていた。2000年代に入るころまで、馬は人 間の農作業のための使役動物として使われていたが、2000年代になってからトラクタ ーの使用が普及し、それの方が馬を使うよりはるかに楽なために、馬から使役動物の役割 が外された。今やガヨでは、馬は競走馬として飼われている。 元々、伝統競馬は中部アチェ県ビンタン郡パンテメニェのラウッタワル湖畔で伝統的に行 われていた。その歴史は1850年ごろまでさかのぼることができる。オランダ人がガヨ の地に入って来たのは1900年代初期だった。オランダ人はヴィルヘルミナ女王の誕生 祝賀記念のために、1912年以来ガヨの伝統競馬をタケゴンTakengonで開催させるよう にした。ヨーロッパ人の好みが催行スタイルにも多少の影響をもたらしたようだ。競馬参 加者に馬の飼料・賞状・賞金が与えられるようになった。だが現在タケゴンで開かれてい るガヨの伝統競馬では、依然として昔ながらの、裸足の子供が裸馬にまたがって疾駆する 伝統的なシーンもたっぷり残されている。 ガヨの競馬でチャンピオンはbekerと呼ばれる。1934年ごろ、オランダ人がガヨでヴ ィルヘルミナ女王誕生祝賀の競馬を催したとき、優勝者への賞品にwekkerが与えられた。 オランダ語のヴェッカーは目覚まし時計のことだ。それ以来、競馬チャンピオンはベクル という異名で呼ばれるようになったそうだ。 2015年8月23日(日)、中部アチェ県タケゴンのブランブバンカ競馬サーキット一 帯は一万人を超える人出で混雑した。17日の独立記念日のあと、ガヨの地はお祭り気分 に覆われた。ひとびとはその一週間、仕事を休み、競馬場に集まって、年に一度の盛大な 休暇を愉しむのである。遠く離れた他県で暮らしている親戚や友人、知り合いたちが、そ こに集まって旧交を温める。ひとびとは競馬場周辺にテントを張って寝泊まりする。ひい きの馬が走るときに声をからして応援し、成績に一喜一憂する。終日続けられるレースを ひとびとは心の底から愉しみ、一年間の憂さをこのときとばかり晴らすのだ。 レースはガヨ馬部門とアスタガAstaga馬部門に分けて行われる。アスタガ馬とはオースト ラリア馬とガヨ馬の交配で作られたAustralia-Gayoの子孫だ。総勢330頭というレース 参加馬のほとんどは年齢1〜5歳、ジョッキーは15〜25歳で占められているが、それ は決して参加条件でない。参加条件など何もないのだ。ジョッキーも馬もスタイルや服装 は完全に自由であり、鞍も鐙もあろうがなかろうがお構いなし。小学生のジョッキーも参 加して裸馬を駆っている。 5歳未満の馬のレースはサーキットを一周する。5歳から上だとサーキットを二周する。 参加ジョッキーはだれもが真剣に馬を駆る。勝利の栄光と賞品・賞金を手に入れることは、 勝者に大きなプライドと喜びをもたらすにちがいない。おまけに優勝馬は高額で売れるの だから、勝者は実に種々のメリットを手に入れることになる。ガヨ競馬はガヨのひとびと にとって、たいへん大きな意味を持つ催事になっているのである。 中部アチェ県タケゴンの町から43キロ離れたブヌルムリア県、更には136キロ離れた ガヨルエス県、いやいや、もっと遠い諸県からも、ウランガヨurang Gayo(=orang Gayo) はブランブバンカに集まって来てテントを張り、一週間を野宿して過ごす。 中には競馬参加者が仲間や隣人を誘ってやって来るケースもある。コーヒー豆商売を生計 にしているアブドゥラッマン・ハサン氏63歳は、持ち馬Jaguar Bukit Kilatを出場させ るに際して、気の置けない村人たち35人を誘ってやってきた。かれはかつて中部アチェ 県ブキッサマ村の村長を20年間務めた名士である。今でも毎朝馬に乗って、一時間余り 村の中を見回っているそうだ。[ 続く ]