「ジャワ島の料理(1)」(2021年11月04日)

ジャワの古典文学作品Serat CenthiniはロンゴストラサナRanggasutrasanaをはじめとす
るスラカルタ王宮の文学者たちが共作したものだ。そしてスナンパクブウォノPakubuana
5世が自らその制作を監督指揮した。

1814年に制作が始まったこのスラッチュンティ二にはジャワ人の生活や習慣、自然や
地理など、さまざまな知識が網羅されていて、あたかも百科事典の趣を呈している。書物
の内容は、マタラムイスラム王国がジャワの覇権を握る過程で起こった史実をもとにする
物語だ。グルシッGresikのスナンギリの子孫たちがマタラムと結んだスラバヤのアディパ
ティの軍勢に攻められて領地を追われ、新天地を求めてジャワ島内を放浪するのがその物
語の骨子であり、そこにジャワの文化・自然・歴史・地理などに関するありとあらゆる知
識が盛り込まれている。

流浪の旅は子孫たちをさまざまな場所に誘い、その結果かれらはさまざまな階層の住民と
接し、さまざまな品物に触れ、さまざまな物語を聞き、さまざまな教訓を汲み取った。夕
方たどり着いた村では、村人たちが泊って行けと勧め、食事を饗応した。そこに、当時の
庶民が普通に食べていた料理が登場する。

ジャワの田舎では、徒歩で旅する人間に対して、今でも同じことが行われている。「もう
夜だから、うちに泊まって行きなさい。」そして夕食と朝食が分かち合われ、旅人と家の
主は夜のつれづれにさまざまな物語を交わし合うのである。


また時には、物語の主人公が訪れた村でスラマタンselamatanが催され、宴に出された料
理や食べ物がストーリーの中で紹介されている。この書に出て来る料理を列挙するなら、
次のような長いリストができあがる。
tumpeng, dendeng rusa, sayur bening, pecel ayam, sayur asam, kolak, opor, semur, 
abon, gudeg, empal, petis, pecel, rujak, magana, lalap daun seledri, awug-awug, 
cothot, gandhos, bongko, pelas, lodhoh ayam, pindhang sungsum, legandha, clorot, 
entul-entul, jenang blowok, galemboh, untub-untub ...

この中には既に失われてしまったものもたくさんあり、ジャワ文化やジャワ料理専門家さ
えそれが何なのか分からないというものもいくつかある。それらの地元伝統料理の他にも
bakmi ayam, kecambah, gulai, sotoなどの外国由来の料理の名も見られるし、serbat, 
ronde, cokotenなどの飲み物や、mendut, carabikang, koci, timusなどのお菓子の名も
出て来る。

面白いのはテンペで、tempe busukが登場する。テンペブスッは今でもブンブのひとつと
して使われており、ジャワ人にとっては味の豊かさを増す調味料のひとつになっている。


ジャワの庶民が客に食事を供するとき、料理が作られている間は客に飲み物・菓子・シリ
などが出され、家の主は客の相手をして会話を楽しむ。料理ができあがれば、食べる順番
はまったく当人の自由だから、食卓の上にさまざまな料理や食べ物を載せた皿が十ほどご
っそりと並べられる。食事が終わると、コーヒー・タバコ・果物などが供された。19世
紀のジャワの一般庶民はそのような食事作法を行っていたようだ。


スラッチュンティ二には、ジャワ人の食の魂である米の知識も記されている。興味深いの
は、記されているコメのほとんどが陸稲であることだ。ジャワ島での米の歴史については、
西暦4世紀ごろやってきたインド人が灌漑農法をジャワ島民に教えたとされていて、それ
以前は陸稲栽培だけが行われていた。どうして19世紀のジャワ島庶民が相変わらず陸稲
を食べていたのだろうか?

ラフルズの書History of Java(1817年)には、水田農法は低地で営まれているという
記述がある。つまり19世紀は水田がまだ丘陵部や山地で行われていなかった時代であり、
物語の主人公はもっぱら丘陵部を放浪していたということをそれは意味しているようだ。
現代では、陸稲栽培は西ジャワの山地部やバンテンのバドゥイ族の領域がメインになって
いる。[ 続く ]