「ヌサンタラの馬(22)」(2021年11月04日)

スリアアッマジャ県令は1921年にメッカ巡礼中に没したためにパゲランメッカとあだ
名された。このパゲランメッカは、馬のことだけでなく、さまざまな分野で善政を施して
住民の福祉向上を図ったスムダンの偉人であり、地元史に赫々たる名前を残している。


数が増加したスムダン馬はムナッ層が領民に預けて世話をさせた。チクルブッ村のキ・シ
パンの家にも馬が預けられた。幼いシパンは馬が大好きになった。父親に馬を水浴させろ
と命じられると、シパンは大喜びで馬を川に連れて行った。シパンは馬の性質や振舞いを
観察して理解を深めた結果、1910年以来、馬に芸を教える調教活動に励むようになっ
た。そのひとつが踊り馬だ。

あるとき、シパンが馬を水浴させに川へ行く途中、一軒の家で祝祭が行われており、その
催事に招かれた音楽隊が演奏していた。そこを通り過ぎようとしていたシパンは、自分の
馬が音楽隊のリズムに合わせて巧みに足踏みしているのを目にしたのである。クダレンゴ
ン芸能がスムダンの地に起こるきっかけがそれだった。もしもシパンがそれを芸能にしよ
うという意欲を持たなかったなら、クダレンゴンはどこか他の土地で興隆していたかもし
れない。

シパンが踊り馬を開発していることがスリアアッマジャ県令の耳に入り、県令はシパンの
活動をバックアップした。県令の子息の割礼の祝祭にシパンが招かれて踊り馬を披露した。
そこに集まっていた貴顕や庶民一同は、シパンの馬の芸に目を見張った。それがクダレン
ゴンショーの事始めだった。こうしてクダレンゴン芸能は県下の村々に広まって行ったの
である。

キ・シパンが作り上げた踊り馬は最初、kuda igelと呼ばれた。イゲルはスンダ語で踊り
を意味している。キ・シパンは1939年に世を去り、子息のキ・スクリアがその後を継
ぎ、現在もその子孫が家業を続けている。


チクルブッ村のエンチョンさんも、クダレンゴン業を営んでいる。かれは元々、牛とヒツ
ジを飼っていたのだが、1998年にオーストラリア混血馬を750万ルピアで購入し、
クダレンゴン業界に加わった。この馬は最初に競走馬として飼われていたのが売りに出さ
れ、エンチョンさんがそれを買った。

エンチョンさんは一年かけてこの馬に踊り馬の芸を仕込んだ。そしてエンチョンさんの努
力は報われた。2000年の県主催フェスティバルで、なんとその馬が一等賞を得たので
ある。「夢にも思わなかった。」とマン・エンチョンは述懐する。

スンダ語Mangは親しみを込めて年長の男性に使う呼びかけ語だ。元々は親族関係の中の叔
父を指して使われた。日本人に名高いバリ島ナクラ通りのBale Udang Mang Engkingのマ
ンがそれである。


ところが一等賞を獲得した優勝馬になったにもかかわらず、マン・エンチョンに仕事の注
文はあまり入って来ない。この業界自体が共通の悩みを抱えているのだ。昔は割礼やその
他の祝祭に使われるショーが限られていたから、好況を謳歌することができた。しかし現
代化が進んだ昨今、ショーはさまざまに多様化している。

その一方で、地方の農村部で祝祭が催される時期は昔ながらの、収穫後の現金が入ったタ
イミングが一般的であり、その限られた時期に需要を大勢が取り合うのだから、この種の
ビジネス経営の難しさは重圧を加えるばかりになっている。その時期から外れたなら、馬
は毎日餌を食って芸を練習するだけになり、家計に負担をもたらす存在になる。[ 続く ]