「ヌサンタラの馬(23)」(2021年11月05日) 注文が入ったとき、料金は相手によって変わる。親しいひとや友人からの注文と、バンド ンや他県からの注文は、同一料金でやれない、とマン・エンチョンは言う。たとえば、バ ンドンからの注文を3百万ルピアで受けても、クダレンゴンを演じる一座の全員に日当を 支給しなければならない。馬を扱う4人、音楽隊14人、ショーを賑わせる踊り手10人、 そして会場まで往復するための運送費。一座の元締めとしてマン・エンチョンの手に残る のは15〜25パーセントくらいが関の山だそうだ。 祝祭シーズンに毎週注文が一件でも入れば、まだ利益はある。しかし昨今はシーズン中で さえせいぜいひと月に二件ほどしか注文がない。「本当のところ、クダレンゴン商売は赤 字だ。儲かる商売じゃない。でもわたしゃこの芸能が好きになってしまった。もう手遅れ だなあ。」マン・エンチョンはそう語った。 クダレンゴンによく似たものに、東ジャワ州東部一帯で行われている伝統芸能ジャランク ンチャッがある。元々はルマジャンで興ったものが、プロボリンゴ・ジュンブル・バニュ ワギ・ボンドウォソそしてテンゲルにまで広がった。 ジャワ島東部の北海岸部にはまたjaran jenggoという馬を主役にした芸能があり、ラモガ ンを中心にして営まれている。芸の内容はクダレンゴンとそれほど違わないものの、ジャ ランジェンゴでは馬を操る男たちがトランスに陥ることが起こり、独特の味わいをかもし だしている。 ルマジャンのjaran kencakも小規模ガムラン楽隊の演奏に合わせて馬が踊る「踊り馬」が 売り物になっているが、クンチャッの語が示すようにクダシラッの要素もたっぷりと含ん でいる。kencakとはpencakからの転訛だそうだ。あのプンチャッシラッのプンチャッであ る。ちなみにjaranはジャワ語で馬を意味する。つまりjaran kencak=kuda silatが成り 立つということなのだ。ジャランクンチャッの由来はマタラム王朝時代にさかのぼる。 1527年にヒンドゥブッダ王朝のマジャパヒッ王国がイスラムを奉じるDemakに倒され たとき、王朝の高位高官たちは妻子従者一族郎党を連れて安全な土地に逃れた。その多く がバリ島まで走ったのは周知の事実だ。 その歴史事件を異宗教間の勢力/支配権争奪という色付けで述べている解説がほとんどで あるように見えるが、それは間違いないにしても、そこにはマジャパヒッ王家内部の愛憎 と権勢の争奪という非宗教的な要素がからんでいたことがあまり語られていないように思 われる。王都を陥落させたドゥマッの太守はマジャパヒッ王の血を受けた王子であり、王 がかれをドゥマッの領主に任じたのである。港湾都市ドゥマッのイスラム商人階層がかれ を領主に担ぎ上げたわけではないのだ。 王が自分の子供たちを王国各地の太守に任じ、折に触れて互いを転封させる習慣は、古く からジャワで行われていたようだ。だから宗教という要素を取り払ってみれば、マジャパ ヒッ王都陥落事件は王家内部の反乱事件という見方も可能になる。 世界中で歴史の中に起こった、母親を異にする多数の王子たちが各地で小王になりながら 愛憎と利害で争い合い、また王宮内での力関係を競い合っていたことは小説に描かれてい ても、そんな要素は歴史解説書の中であまり触れられないように見える。 宗教を前面に押し出して王都陥落を論じるのなら、ラデン・パタがその勢いに乗って一気 呵成に、イスラム布教の徹底を目指してマジャパヒッ王国の全土を蹂躙しなかったのはど うしてなのか?その実態を見る限りわたしには、マジャパヒッ王都陥落は父王とその取り 巻き高官たちに向けられたラデン・パタの憎しみが本質であり、父王を倒すことこそがそ の軍事行動の焦点だったのではないかと思われるのである。閑話休題。[ 続く ]