「ヌサンタラの馬(24)」(2021年11月08日)

さて、ジャワ島東端のバニュワギにあったヒンドゥ王国ブランバガンが1771年にイス
ラム軍に倒されてイスラム化し、ジャワ島のほぼ全域から非イスラム王国の姿が消えた。

マジャパヒッ王都陥落の際にバリ島に逃れた親戚の子孫と親交を結ぼうと考えたポノロゴ
の領主がその機を利して、1775年に親善使節団をバリに派遣した。自分の祖先である
マジャパヒッのバタラ・カトン王の子孫を探し出して親戚付合いをしたい。スラカルタと
ヨグヤカルタに分裂したマタラム王国の最新情勢を詳しく説明もしたい。

親善使節団はバリへの土産として、ワヤンの戦争シーンに出て来るような武装馬を多数連
れて行った。一行がルマジャンまでやってきたとき、武装馬の中の数頭が暴れ出した。周
辺を走り回り、取り押さえようとしても人間に反抗して蹴りまくる。誰の手にも負えない
ことが明らかになると、使節団長はそれぞれの馬の世話人だけをそこに残して、使節団に
出発を命じた。暴れ馬とその世話人はルマジャンに居残った。

最終的におとなしくなった馬たちをルマジャンの地元民はjaran ngepangと呼んだ。~ゲパ
ンとは蹴ることを意味している。つまりやたら蹴りまくる性質の馬という通称をポノロゴ
から来た馬に与えたということだろう。そのngepangが長い歳月の間に訛ってkepangに変
化し、ジャランケパンあるいはクダケパンという名称に変わった。だからこの場合のケパ
ンは標準インドネシア語の意味と違っている。


マジャパヒッ時代のずっと以前からイスラムマタラム王国に至る歴史の中で、現在のパス
ルアン・プロボリンゴ・ルマジャン・ジュンブル・シトゥボンド・ボンドウォソ・バニュ
ワギの諸県からなるジャワ島東端地方は、ジャワ島中央部の直轄地域から遠く離れたエリ
アとして差別視されていた。中央権力の威勢が弱いその地方で、しばしば反乱が勃発して
いる。

そういう歴史的文化的特徴を持つジャワ島東端地方をインドネシア人はtapal kudaと呼ん
だ。上述の諸県が占めている地域の中央部は険しい山岳地帯になっており、人間の居住地
域として適しているエリアを枠で囲むと馬の蹄鉄の形になることからその表現が起こった
とされている。

1806年にマドゥラの太守チャクラニンラ3世がサンパンからマドゥラ人25万人をタ
パルクダ地方に移住させた。そのために、現在のタパルクダ地方のあちこちにマドゥラ
化の影響がいろいろと表れている。

ルマジャンに移住したマドゥラ人たちも、クダケパンを好んだ。馬を相手に勇壮な立ち回
りの姿を示す芸能が、格闘技を好むかれらの心理にフィットしたのだろう。マドゥラ人た
ちはその芸をジャランプンチャッと呼んだ。それが長い期間にジャランクンチャッに変わ
ったというのがルマジャンのジャランクンチャッにまつわるストーリーだ。

だから本来はその名の通り、ルマジャンに居残った暴れ馬とそれをおとなしくさせようと
した世話人たちの間で繰り広げられた闘争を描いた芸能なのである。踊り馬は多分、プラ
スアルファだったのだろう。クダロンゲンとは重心の位置が違っていて当然だ。


東ジャワのブロモ火山観光にも馬が登場する。ブロモ山の火口湖に当たるおよそ10平方
キロの砂の海を渡ってブロモの噴火口を覗きに行くひとびとを運ぶのがその馬たちだ。ブ
ロモでは、馬は交通機関の役割を果たしていて、他の観光地のような娯楽乗馬とは異なっ
ている。もちろん、砂の海の上を娯楽乗馬したって構わないのだけれど。

砂の海を臨む崖を越えて砂の海の中までジープで入ることは可能だから、砂の海の端から
馬を雇わなければならないわけでは決してない。ジープをチャーターしてプナンジャカン
峰で日の出を拝み、それからブロモ火口見物に来る観光客もたくさんいる。ところが、ブ
ロモの噴火口からかなり離れた場所でジープは停まる。そこから数百メートル離れたブロ
モ火口峰に登る階段まで、自動車の接近は禁止されているのだ。徒歩が嫌なら、馬に乗る
しかない。[ 続く ]