「ヌサンタラの馬(25)」(2021年11月09日)

車両駐車場から噴火口峰に登るための心臓破りの階段へ馬に乗って向かうのだが、平坦な
砂の海はすぐに通り過ぎ、その後は足場の悪い急な登攀路に差し掛かる。乗馬に慣れてい
ないひとは「こりゃ、歩いたほうが良かったかな?」という後悔が心をよぎるかもしれな
い。鞍から滑り落ちたら、とんだ恥さらしだ。

急峻な土地を馬上で昇り降りし、心臓破りの階段を徒歩で上り下りするというハードな体
験がブロモ火山観光には付いているから、ブロモ観光を思い立ったらまず心臓を鍛えてお
くことが肝要だろう。


ブロモ火山で観光客を運んでくれる馬はたいていがスンバ島のサンドゥル馬とスンバワ島
のビマ馬だと地元民は言う。テンゲル馬kuda Tenggerという言葉がインドネシア語記事に
時おり出現するものの、テンゲル高地にいるからそう呼ばれているのであれば、ジャワ馬
である保証はどこにもないということになる。

元々、このジャワ島最高峰のスメルSumeru山とそれに連なるブロモ山テンゲル高地の住民
は、ドゥマッによる1527年のマジャパヒッ王都陥落から逃れて来たヒンドゥ王朝の支
配層と庶民たちであり、下界から馬に荷を引かせて移住して来たことは間違いないと思わ
れる。民衆が持っている運搬や農耕の使役馬として以外にも、マジャパヒッ軍の軍用馬と
して飼われている馬がマジャパヒッにはたくさんいた。ただ16世紀はビマ馬の名声がヌ
サンタラに鳴り響いていた時期であり、下界からテンゲル高地に上がって来た馬がジャワ
古来の馬だったのかどうか、その辺りのことが判然としない。

ジャワ島における馬に関する記録を探ると、1513年にトメ・ピレスが書いた、ブラウ
ィジャヤ王の代理を務めるグスティ・パティは20万人の軍勢を擁し、2千人の騎馬隊と
4千人のマスケット銃隊がその中にいる、という記事が見つかる。

ジャワ島に騎馬戦術を駆使する騎馬兵団が出現したのは12世紀と見られている。14世
紀には、中国の馬の輸入元のひとつにジャワ島があげられていた。そのように古くから、
ジャワ馬はジャワ島の有益な資源になっていたと思われるのだが、現代の状況は、インタ
ーネットで調べてもkuda Jawaという言葉自体があまりヒットせず、見つかっても「ジャ
ワ島にいる馬」「ジャワで飼育されている馬」の意味で使われている印象が濃い。


ソロから東ジャワ州マグタンMagetanに向かう街道を東進すると、ラウ山の南麓にある高
原観光地タワンマグTawangmanguに至る。高原観光地の例に漏れず、ここにもたくさんの
馬がいて観光客に娯楽乗馬の機会を提供している。

その馬にかれらは一年に一度、ジャワ暦の正月に当たるスラ月に厄払いの儀式を行うので
ある。儀式会場まで、ジャワ風の盛装をしたオーナーが各自自分の馬に乗って行列を組み、
整然と行進する姿は十分に観光イベントとしての絵になるものだ。

ジャワ人は厄払いの儀式をruwatanと呼んでいる。ruwatは新しい状態に戻すことを意味し
ていて、長期間この世にあって使われて来たものにさまざまな厄がしみ付くため、それを
落として新しい状態に戻すことがその原義のようだ。そしてタワンマグで行われている馬
のルワタンはSuryo Jawiという名で呼ばれている。

普段、グロジョガンセウの滝地区で活動している娯楽乗馬の馬たち140頭ほどが、スル
ヨジャウィの日の前日から身を清め、当日は盛装した主人を乗せて行列行進を行い、会場
に向かう。会場ではまず、主人たちは馬をつないで導師の演じるワヤンクリを鑑賞し、導
師と一緒に厄払いの祈りを捧げ、ナシトゥンプンをみんなで食べる。

それが終わると、七種の花を浸けた水で馬を濡らし、乗馬の鞭の握り部分をその水が入っ
たバケツに浸す。導師はそのバケツを見てそれぞれの馬が抱えている問題を判断し、それ
ぞれの馬についての注意と心構えを主人に指導する。スルヨジャウィの儀式はそれで終わ
る。[ 続く ]