「ヌサンタラの馬(26)」(2021年11月10日)

バンドン市の東に隣接するチマヒで、毎週月曜日の午前中だけ馬市が開かれている。半日
しか開かれないのは、商売のボリュームが小さいからだ。それでもチマヒの馬市は西ジャ
ワの馬売買センターになっていて、ガルッ・タシッマラヤ・チアンジュル・ボゴールその
他この地域に住んでいるひとびとが馬を買うときはチマヒにやってくる。

西ジャワ一帯で馬に関わる世界に住んでいるひとびとはチマヒで月曜日だけ開かれる馬市
をPasar Seninと呼んでいるから、関係者ならパサルスニンの意味はすぐに分る。パサル
スネンではないから、間違えると意思疎通に混乱が起こるかもしれない。

パサルスニンに供給される馬は馬車の引馬や娯楽乗馬のためのものがほとんどであり、需
要と裏表の関係になっている。西ジャワの各地には、ドカルやデルマンなどの馬車を持ち、
馬車を動かして商売しているひとびとがまだまだ存在しているのである。

そのパサルスニンに、馬のアクセサリー類や華やかな飾り衣装を作る工匠たちも店を出す。
馬が登場する儀式や祭典では馬が飾り立てられるのが普通であり、そんな用途に使われる
馬のオーナーは馬用の派手な衣装を持っていなければならない。燃えるように赤いウール
の糸を何本も使って鶏冠のようにしてある馬の顔を覆うものはブロンソンbrongsongと呼
ばれる。あるいは胸の部分や胴を覆う衣装なども黄金色に輝く金属の薄片で飾り立てられ
る。それらは厚さ2〜3ミリの本革で作られており、馬を完ぺきに盛装させると衣装の重
量合計は15キロにのぼる。西ジャワの工匠たちは昔ながらの完全な手作りでそれを制作
する。素材の本革はプカロガンから購入している。

言うまでもなく、それらは一級品であり、全部買いそろえるには2〜3百万ルピアの出費
になる。その金を用意できる馬オーナーもいれば、困難なひともいる。おのずと廉価版低
級品の需要がそこに起こる。一式揃えて1百万ルピア超程度という費用負担の軽いものを
も、工匠たちは作らなければならない。それはきっと、馬にとっても軽いものになること
だろう。

工匠たちの多くはバンドン市西部のチジュラ地区のひとびとである。パサルスニンの合間
の一週間に急用ができれば、馬オーナーは直接工匠の工房を訪れる。工匠はみんな、十年
選手ばかりだそうだ。


zaman kuda gigit besi という慣用表現をはじめて読んだり聞いたりしたひとは、いつの
時代のことなのかまず見当が付かないだろう。わたしがそれを初めて耳にしたとき、人類
が馬にハミを噛ませて乗りこなすようになったくらい大昔のことを言う比喩ではないかと
思った。ところがどっこい、この表現はバタヴィアの大通りを馬車トラムが走っていた1
869年から1882年までの時期を指して、ブタウィ人が使い始めたものらしい。

多分、馬車トラムから蒸気トラムに転換されたあと、それ以前と現在を比較して論評する
際の飾り文句として生み出されたものだったのではあるまいか。何しろ馬車トラムの時代
は馬の排泄物で大通りがたいへんなことになり、おまけに馬が過重労働で倒れて死ぬこと
が頻発したのである。

1872年の一年間に馬車トラムの引馬で走行中に倒れて死んだ馬は545頭に達した。
憐れな馬たちにとっての難所は、ハルモニ⇔タナアバン線のタナアバンの丘に登って行く
一帯であり、545頭の大部分がその地区で倒れたそうだ。

バタヴィアではその時代を頂点として、馬の時代がこの大都市から消滅して行った。自家
用車やタクシーとして使われていた馬車も四輪自動車や三輪のベチャに駆逐されて、馬た
ちは居場所を失ってしまうことになったのである。まさにそれが、馬が鉄を噛んでいた時
代だったということかもしれない。[ 続く ]