「ヌサンタラの馬(27)」(2021年11月11日)

ベチャの語源は馬車の福建語読みだというのが定説になっている。馬車に成り代わって今
後はベチャが活躍するのだという自負が込められていたのなら、その命名者が時代を見通
した目にわれわれは脱帽するべきかもしれない。だが、ベチャをこぐ人間をなぜ馬に見立
てたのだろうか。tukang becakは馬車馬のような人生を生きることになるという哲学的な
達観を踏まえたものだったのだろうか?

いやいや、そのような解釈はベチャが最初から人間を運ぶ交通機関として発生したことを
前提にする、とらわれた発想なのではあるまいか。蘭領東インドで自転車が普及してくる
と、一人乗りの二輪車に荷台を連結してひとや貨物を運ぶ用途に改造されたものへの需要
が起こった。


最初、蘭領東インドの玄関口であるバタヴィアに初めてヨーロッパから自転車が送られて
来たのは1890年だった。オランダ人実業家フライターGruyterがローヴァー社製自転
車を輸入し、ガンビル地区に店を開いて販売した。一台5百フルデンという結構な価格で、
それを購入した者は胸を張り、肩をそびやかして大いに自慢したそうだ。オランダ人上流
層と華人分限者が、1885年からイギリスで生産が始まったそのローヴァ―セーフティ
自転車の所有者になった。

そのうちに、輸入されるヨーロッパ製自転車のブランドは多彩な増加を示し、Gazelle, 
Raleigh, Simplex, Humber, Rudge, Burgers, Kaptein, Mustang, Batavus, Hercules, 
Cyrus, Phoenix, Fongers等々がバタヴィアだけでなく、他の東インド主要都市にも満ち
溢れるようになった。バタヴィアで登録された自転車の累積台数は1937年に7万台に
達し、およそ60万人だったバタヴィア住民人口の1割を超えた。住民8人に自転車1台
という比率になる。

バタヴィア旧市街に勤めるオランダ人トアンたちはヴェルテフレーデンの自宅から職場に
自転車で通勤するひとが増え、路面電車もしくは自転車のどちらかを使うようになった。
自転車通行者の大幅な増加によって、バタヴィアでは大通りに自転車専用レーンが設けら
れて交通の混雑緩和がはかられた。

植民地政庁は東インドであらゆる道路交通機関に税金を課したから、あらゆる乗物は役所
に登録して毎年ペネンpenengと呼ばれる税金を納めなければならなかった。自動車や自転
車ばかりか、馬車のサドやデルマン、後に出現するベチャ、果てはただの荷車でしかない
グロバッも登録ー納税ー納税証憑を車両に掲示するというプロセスを実行させられた。そ
れを怠ると、高額の罰金が科されたそうだ。

罰金と言えば、それらの道路交通機関には夜間通行に際して灯火照明の設置も義務付けら
れ、違反者は5フルデンの罰金が科せられた。5フルデンというのは、当時の一般プリブ
ミ庶民がなんとかひと月、食いつなぐことができた金額だ。

灯火照明は最初、灯油やローソクを金属製ケーシングの中に置いて火を点けたものが使わ
れた。だから初期の自転車に照明は常設されておらず、1911年になってはじめて電気
式の照明が自転車に常設されるようになった。
日本軍政期には、四輪二輪の自動車と石油を日本軍が戦争遂行のために押さえてしまった
結果、プリブミ庶民が不安なく使える自家用乗物は自転車だけになり、自転車の人気が高
まった。一般庶民住宅地区には、自転車の修理や調整を行うbengkel sepedaが昨今のベン
ケルモトルのように林立した。


オランダ語で自転車はfietsあるいはwielrijderだが、19世紀のオランダ人はフランス
語のヴィロシペドvelocipedeの方をよく用いていたそうだ。そのために、インドネシア人
はヴィロ+シペドの後半だけを取ったスペダsepedaを自分たちの言語に取り込んだ。

しかしオランダ語のフィーツをムラユ式に発音するピッも並行して使われ、KBBIには
pitがsepedaの同義語としてインドネシア語標準語彙のひとつに認定されている。そして
更にkereta anginという言葉もスペダと同じ意味でKBBIに掲載されている。この「風
の車」という詩的な名称は一体どこから来たのだろうか?[ 続く ]