「ヌサンタラの馬(28)」(2021年11月12日)

自転車は風を動力にして走るわけでないのだから、この名称は非論理的だという意見があ
る。いや、anginは動力のことでなくて、まるで風の中を突っ走るような、風を巻き起こ
すような感触が得られることを踏まえた表現だという意見もある。ところがそれらとはま
た異なって、このアギンとは風のことでなく、空気のことだという意見もあるのだ。

1888年にスコットランド人ダンロップが空気を充てんしたゴム製タイヤを自転車の車
輪に履かせた。以後、自転車は空気タイヤを装着して生産されるようになり、その特徴を
とらえてムラユ人は自転車をクレタアギンと表現したというのがその意見だ。

クレタアギンという言葉をマラヤ半島のひとびとが考えついたのか、それとも東インド島
嶼部のひとびとが考えついたのかよく分からない。KBBIにも現代マレーシア国語辞典
のKamus Dewanにもクレタアギンは同じように採録されている。

マラヤ半島がイギリスを宗主国にし、東インド島嶼部がオランダを宗主国にしていたこと
がもたらした明白な違いが、マレーシア語の中に自転車を意味するbasikalという単語が
存在する点に示されている。オランダ語にあるのはfietsであり、bicycleという単語では
ないのだから。


自転車からオートバイが作られるのは、時間の問題だった。馬車をエンジンで動かそうと
する試みが盛んに行われている中で、木製自転車に小型エンジンを取り付けたものをダイ
ムラーが1885年に試作した。ダイムラーのパートナーであるマイバッハが時速12キ
ロでネカー川沿いの3キロの道を試運転した。

1893年にミュンヘンでHildebrand und Wolfmullerが世界初の一般向けオートバイ製
造販売を開始した。そしてその一台がその年に蘭領東インドに送られて来た。ジャワ島に
住む個人が注文したのである。東ジャワのプロボリンゴにあるウンブルUmbulサトウキビ
農園の製糖工場で働くイギリス人エンジニア、ジョンCポターが個人的に発注したものだ
った。

ポターは世界初のオートバイ商業生産者に手紙を送り、商品を一台ジャワ島へ送るように
求めた。ヌサンタラの地に初めてオートバイが届いた時の様子を描いた資料は見つからな
いが、そのオートバイはスマランで陸揚げされてプロボリンゴまでやってきた。ポターは
プロボリンゴの地で、大喜びでそれを乗り回したにちがいあるまい。きっと自転車すらま
だ知らなかったプロボリンゴの住民は、轟音をあげて疾走するオートバイに目をみはった
ことだろう。

1902年にはベルギーからMinervaオートバイが輸入された。ミネルヴァ製オートバイ
は後ろに左右二輪の客車を連結できるものがあり、人を乗せて走った。客車を外せば普通
のオートバイとして使われる。オートバイでそれなのだから、自転車でそうしない理由は
ないということになるだろう。


ヌサンタラ開闢以来はじめての四輪自動車が蘭領東インドに姿を現したのは1894年の
ことだった。ポターがオートバイを輸入した翌年だ。その第一号車はベンツヴィクトリア
であり、これもスマランで陸揚げされた。オランダ本国にドイツから四輪自動車の第一号
が入ったのは1896年だったから、東インド植民地のほうが先行したことになる。

その第一号車オーナーはスラカルタのススフナン、パクブウォノ十世で、スラバヤの高級
品輸入商社に発注して取り寄せられた。ススフナンのオランダ人顧問が熱心にそれを勧め
たという裏話がある。王宮はスラバヤの商社に1万フルデンを支払った。

スラカルタの民衆は、馬が引かないのに8人乗りの大型車両がひとりでに走るのを見て仰
天し、それをkereta setanと綽名した。ポターのオートバイはさしづめ、クレタセタンの
皮きりだったと言えよう。[ 続く ]