「ジャワ島の料理(7)」(2021年11月12日)

中部ジャワのひとびとが生活の中で行っているこの料理の呼び方は弱母音を使うグドゥッ
であり、グデッではないのである。一方、adhekはジャワ人ですら強母音でアデッと発音
している。中部ジャワのひとびとも普段から「バグ〜ス、デッ。Bagus, Dek.」と言って
いるにもかかわらず、バグ〜スが英語のグッに変わったとたんにどうしてデッがドゥッに
変化するのだろうか?

この説は「言語は文字である」派のひとびとに対する説得力はあるだろうが、「言語はま
ず音ありき」派のひとびとは「グデッ」がどうして「グドゥッ」に変化したのかについて、
きっと釈然としないものを感じるだろう。言語を文字としてしか見ていないひとびとが往
々にして陥るのが、この種の不完全さであるようにわたしは思っている。

それともうひとつは、16世紀後半からあったとされているこの料理はイギリス占領時代
のずっと前から独自の名称を持っていたはずであり、そう易々と外国人の言葉に置き換え
られるものだろうかという疑問がわたしには湧いて来る。そのイギリス占領時代の真った
だ中で書かれ始めたスラッチュンティ二の中にgudegが記されていて、この説に違和感を
生じさせる、更なる要因になっている。


グドゥッは作ってからせいぜい1〜2日しかもたない。料理人はもっと厳しく、1日しか
もたない、と言う。しかし日持ちのするグドゥッの試みは古くから行われ、1950年代
になってもう少し日持ちのするgudeg keringが作られるようになった。日持ちするグドゥ
ッはゴリを水分がなくなるまで煮込んだものを使い、汁気が排除されている。

つまりグドゥックリンは食べる前にgudeg basahに復元されてはじめて本来のグドゥッを
食べることになるのであり、グドゥックリンをそのまま食べるのではホンモノのグドゥッ
を食べることにならないのではあるまいか。

その難問への対策として、インドネシア科学院LIPIはグドゥッの缶詰化を推進した。
一方、ビジネスが落ち込んだグドゥッの老舗ブチトロの第四代目当主であるジャトゥ・ド
ゥイ・クマラサリさんもビジネス再興の念願のもとに、グドゥッの缶詰化を試みていた。
そして両者の出会いがグドゥッブチトロ缶詰を実現させたのである。ブチトロ以外のグド
ゥッレストランもいくつか、LIPIの協力を得て自分の銘柄のグドゥッ缶詰を市場に送
り出している。


グドゥッブチトロは、1925年にチトロ・サストロディプロジョ氏が自宅の表とヨグヤ
カルタ市内パサルガスムPasar Ngasemで小規模なグドゥッの売店を始めたのが、その発端
だ。1960年代になって、子息のスマディ氏がヨグヤ市内とジャカルタでレストランを
開業した。

スマディ氏の娘レッノ・ウィディアストゥティさんがその後を継ぎ、1980年代に黄金
期を迎えたが、競争相手の増加と経営の不手際のためにその後、衰退期に入ってしまった。
レッノさんの娘ジャトゥさんが母親の後を継いだとき、伝統ある屋号ブチトロの再興がか
の女のチャレンジの標的になったのである。

業界と市場の状況や種々の条件を検討した結果、ヨグヤカルタ名物のグドゥッを缶詰にす
るアイデアに白羽の矢が立った。缶詰にすればグドゥックリンよりはるかに日持ちが長く
なり、おまけにそのままグドゥッバサの状態で賞味できる。そして、どこへでも手軽に持
ち運ぶこともできる。

インドネシア科学院がさまざまなインドネシア伝統料理の缶詰化プロジェクトを行ってい
ることを知ったジャトゥさんは、缶詰グドゥッ実現のために相談を持ち掛けた。そのとき、
科学院は既に数種類の伝統料理缶詰を市場に送り出しており、その中にはグドゥッもあっ
た。しかしそのグドゥッ缶詰は野菜だけが入っていて、鶏肉と卵は入っていなかった。そ
れでは、ヨグヤの名物料理グドゥッを食べることにならないのではないかとジャトゥさん
は思った。缶詰を買ったひとは、レストランで食べるようなものが缶の中に入っているこ
とを期待するはずだ。かの女は自分の希望をアピールした。[ 続く ]