「ヌサンタラの馬(29)」(2021年11月15日)

バタヴィアのタンジュンプリオッ港にはじめて四輪自動車が陸揚げされたのは1903年
だった。最初は数人の大金持ちの所有物になっただけだったが、瞬く間に台数が増加して
大通りを馬車と競り合うようになった。その現象についてどう対処するべきかをバタヴィ
アのレシデンが市政評議会に諮問し、評議会は1905年11月25日付けで答申を行っ
た。道路交通に危険を及ぼさず、また道路破損を生じないかぎり、四輪自動車の増加は何
ら問題ないと考える、というのが回答だった。

しかし現実に自動車と馬車の衝突事故は発生し、衝突すれば馬が死んだ。自動車が増える
ことは、馬車が動く余地を狭めることを意味していた。おまけに賃貸し馬車業者も馬より
自動車の方にメリットを感じるようになり、時代の流行と相まって都市部での馬の存在す
る余地は大きく狭められて行ったのである。


バタヴィアの四輪車登録台数は年を追って増加し、1925年に5千台の大台に乗った。
別の記事では1916年となっている。四輪自動車賃貸し業者は雨後のタケノコのように
バタヴィア市内に増え、それどころか無許可タクシーも夜昼かまわずバタヴィア一円に横
行した。

インドネシアの自動車タクシー事業は1930年にバタヴィアで始まったとされているの
だが、これはタクシー会社についての話なのだろうか?それ以前に行われていた無許可タ
クシーというのは、自動車のオーナーが車の遊休時間にタクシー活動を行って金を稼ぐ個
人タクシーがほとんどだっただろうから、そう考えれば辻褄は合う気がする。

バタヴィア市内のタクシーは乗降場所が定められ、道端で客をひろったり降ろしたりする
ことは禁止された。乗降場所は、旧バタヴィア市街では旧バタヴィア市庁舎前・西カリブ
サール・グロドッ広場、ヴェルテフレーデンではハルモニ近く・水門・シアター・ヴァー
テルロー広場南角・ガンビル駅・デカパルク・ゴンダンディアラマ・ラデンサレ通り・動
物園・クレコッ・パサルバル・スネンだった。

一台のタクシーに客は5人まで乗ることができた。料金は1km当たり30センまたは1
分当たり10センで、最低料金が50センだった。それは6時から23時までの昼間料金
であり、23時から6時までの夜間料金は5割増し、夜間の最低料金は1フローリンとな
っていた。

その当時、タンジュンプリオッ港は郊外という感覚だったのだろう。タンジュンプリオッ
から乗ったり、タンジュンプリオッへ行く場合は25%の割増料金が付いた。タクシーを
待たせる場合、1分当たり5センの待ち料金を取られた。タクシー運転手は実車走行中の
禁煙が厳命され、違反すると運転免許証が没収された。


ちなみに、オランダ語で自動車運転免許証はレイブヴェイスrijbewijsと言い、植民地時
代はプリブミもそれをムラユ発音でレブウェスrebewes/rebuwesと呼んだ。1970年代
半ばごろでも、ジャカルタのひとびとは一般的にレブウェスを使っていた。わたしが初め
てインドネシアの運転免許証を取得したとき、それは現在ジャカルタ首都警察本部がある
場所ですべての手続きが行われたのだが、今の標準インドネシア語であるシムSIM (Surat 
Ijin Mengemudi)という言葉を一度も耳にしなかったように記憶している。

今の首都警察本部構内の外来者駐車場になっているあの広い土地は草ぼうぼうで、運転免
許証取得のための運転実技試験はあそこで行われていた。わたしは日本から国際免許を持
って来たので、実技試験は免除された。壁に掛かっている道路標識一覧図を使って標識の
意味を答えさせられたのが、わたしが受けた唯一のテストだった。


バタヴィアのモータリゼーション初期の自動車オーナーは金持ちや高官たちだったために、
たいてい運転手を雇った。運転手にはヨーロッパ人・華人・プリブミが雇われた。給料が
良かったためにヨーロッパ人が多かったようだ。そのころ、オランダ人も運転手のことを
フランス語でchauffeurと呼んだようで、オランダ式発音ショフールをプリブミはソピー
ルsopirと発音した。[ 続く ]