「ヌサンタラの馬(30)」(2021年11月16日)

ちなみに、馬車の御者はプリブミがkusirと呼んだ。オランダ語koetsierからの転訛だ。
オランダ語koetsは英語のcoachに対応する言葉であり、四輪馬車を指している。馬車の御
者を指すインドネシア語にはクシルだけでなく他にsaisという言葉もある。サイスはイン
ド語セイスsaiisが語源とされている。

最初はマイノリティだったプリブミ運転手は、そのうちに自動車が増加して無許可個人タ
クシーとして使われるようになってくると、すさまじい勢いで人数が増加し、比率が逆転
してしまった。ましてや、乗合運送自動車が出現するようになれば、白人がアジア人を乗
せて車を運転することなどありえないのだから、路上を走っている自動車でプリブミの運
転するものはタクシーや乗合、白人が運転するものはマイカーという弁別が常識になった。


1930年から始まった世界大恐慌のために、自動車オーナーだったヨーロッパ人が車を
廉く手放し、華人やプリブミがそれを買った。そして新しい車オーナーは毎日のsetoran
を条件にしてその車を運転手に貸した。こうして無許可個人タクシーが大量生産されたの
である。

そのストラン制度とは、資本家である車両オーナーが運転手にそれを委ね、運転手から一
定金額の対価を毎日納めさせて車両を稼働させるシステムのことだ。このシステムは今日
に至るまでインドネシアに生き続けている。

おまけにスラバヤではNV DEMMO社が乗客運送用簡易三輪自動車の生産を開始し、
ローカルコンテンツ50%の廉価車両が世の中に送り出されて来た。デンモは1932年
6月にもっと広い工場に移って生産量を増やし、ジャワ島外のメダン・パレンバン・バン
ジャルマシン・バリッパパン・マカッサルに販路を拡大した。

オランダ資本大型商社N.V. Borneo Sumatra Maatschappij(略称Borsumij)も簡易三輪自
動車製造ビジネスに参入し、Ataxと名付けたモデルを市場に送り出した。それらの三輪自
動車はたいていが乗合運送機関として使われ、プリブミが運転した。


19世紀末になって起こった上のような交通機関の続出が、それまで何千年にも渡って続
いてきた馬の時代に引導を渡す死神の役を演じたのはまちがいあるまい。馬が引くクレタ
クダはクレタセタンに取って代わられたのである。馬に引かせていた荷車も同じようにし
てクレタアギンに交代した可能性は小さくあるまい。

日本で明治時代の幕開け早々、人力車が作られて乗客を運ぶ運送事業が始まった。十数年
後の1880年ごろ、人力車はイギリス領のインドに持ち込まれて運送機関としての確固
たる地位を得た。イギリス人はそれを更にシンガポールや香港にも持ち込んだ。香港で始
まった人力車は瞬く間に中国全土に広がり、中国大陸に一大ブームを巻き起こした。

人力車の自転車版cycle rickshawは、英語ウィキによれば1880年代に既に作られてい
たが、シンガポールで1929年に広く使用されるようになったと解説されている。とこ
ろがシンガポールの状況を撮影した1938年制作ドキュメンタリー映像を見ると、乗客
を運んでいるのはすべて人力車ばかりであり、乗客を乗せた三輪自転車は一台も写ってい
ない。荷物を積んで走っているベチャ風のものが一台だけそこに混じっていた。


バタヴィアではどうだったのだろうか?1930年代のバタヴィアを撮影したドキュメン
タリー映像に人力車はひとつも見当たらず、写っているのは路面電車・四輪自動車・人間
を乗せた馬車・馬に引かせた荷車・自転車・そして数少ないベチャだった。ベチャは前面
に客席のある標準仕様になっている。多分、自転車の中にオートバイも混じっていたのだ
ろうが、わたしの目にはすべて自転車であるかのように見えた。[ 続く ]