「ヌサンタラの馬(32)」(2021年11月18日)

ベチャの増加は、大通りの交通に悪影響をもたらした。大量のベチャが一団となって道路
を走れば、乗合バス・小型乗合・オートバイ・タクシーや自家用四輪車はその後ろをのろ
のろとついて行くしかなす術はない。おまけにベチャ引きにも行儀の良い者と悪い者がい
て、赤信号を突っ切ったり、自動車と接触すると恐喝まがいのことをするやからもいた。

パサル近辺のそれほど広くない道路を、道一杯にあふれているたくさんのベチャに触れな
いようにしながら四輪車を徐行させるときの緊張感は、体験した人間でなければ分からな
いだろう。1970年代半ばごろのジャカルタには、そんな場所がいっぱいあった。自分
が車を乗り入れようとする小路にベチャが群れているのを見たときは、憂鬱になりがちな
自分の心を励ましてそこに踏み込んで行ったものだ。


それまで話題でしかなかったベチャの規制が実際に開始されたのはアリ・サディキン都知
事の時代だった。1970年のジャカルタのベチャ台数は10万、72年には15万台と
言われ、ベチャ引きは35万人にのぼった。ジャカルタ人口の8%がベチャ引きだったの
である。

都知事はベチャの登録を厳格化させ、都内でのベチャ生産と都外からのベチャ持ち込みを
禁止した。更にベチャ引きにレブウェス取得を義務付け、営業時間と営業区域を定め、ま
たベチャが入ってはならないベチャフリーエリアを定めて、それまでの野放図なベチャ運
行活動に手かせ足かせをはめた。

今でも覚えているのは、1970年代半ばごろ、タムリン通りのサリナデパートからクバ
ヨランバルの家までベチャで帰ろうとしたところ、ベチャはある場所で止まり、「ここか
ら先へは行けない」と言い出したので、ベチャ引きと口論したことがある。ベチャの営業
区域制度が行われていることを知らなかった若僧の失敗談だ。


1972年に出された都条例で、ベチャはopletと同様にジャカルタに不適当な交通機関
であるという断罪がなされ、ベチャをジャカルタから閉め出す公式の動きが始まった。こ
うして数年後には、かつて16万台という隆盛を極めたベチャが3万8千台にまで減って
しまった。しかし、その後がしつこかった。その数万台は、飯の種のベチャを自主的に放
棄する意志を持たないひとびとがゲリラ的に運行させるものだったのだ。行政は実力行使
に出た。

1985年1月から都庁はジャカルタ全域をベチャフリーエリアに定めた。街中にベチャ
がいれば、それは違反行為になるためベチャは没収される。都行政によるベチャ手入れは
頻繁に行われ、たくさんのベチャがトラックに積み上げられて違法物品集積場に運ばれて
行った。集まったベチャ5千台がその年内にジャカルタ湾に投棄されて魚の住処にされ、
それ以来ジャカルタ湾の海底がベチャの墓場になった。

そのころ、ベチャの没収執行にからんで、ベチャ引き集団と都行政の秩序安寧部門との衝
突やさまざまな悲劇が起こって都民の話題になった。ベチャを没収されたベチャ引きの青
年が「オレは自殺する!自殺する!」と叫んでいたのを役人はだれも相手にしなかったが、
翌朝現場から遠くない場所の立木で首を吊った男が発見され、記者が調べたところベチャ
を没収された青年の言行一致行動だったことが判明して新聞を賑わせたこともある。

しかしベチャの完全制圧はなかなか実現せず、低所得層住宅地区のパサルや街路を数台の
ベチャがひっそりと客を乗せて走っている姿が消える日は来なかった。そして1998年
の通貨危機がベチャの絶滅に救いの手を差し伸べた。激増した失業者への対策として、住
宅地区内から大通りに出ないことを条件にして地区内でのベチャ運行を承認する発言をス
ティヨソ都知事が行ったのである。

するとジャカルタの外からベチャが続々と都内に入って来て、わずか一週間のうちに、そ
の数は1千5百台に達したという。慌てた都知事はニベもなく前言を撤回してしまった。


2001年には6千8百台のベチャが「生きるのは煩わしいが死ぬのは嫌」という風情で
余命を保っていた。邪魔だから没収して海に投げ込む政治はオルバレジームを象徴するよ
うな政策であり、レフォルマシ時代にそんなことをする政治家はもういない。だが数十年
前から作られて施行されている法規では、ジャカルタのベチャは非合法なのである。

2017年に第16代目の首都知事に就任したアニス・バスウェダン氏は選挙戦の中で、
自分が知事になればベチャを合法化させることを方針の一項目にして運動していた。都知
事就任後、実際に都庁内部で検討がなされたようだが、具体的な変化はいまだ何もない。
[ 続く ]