「誰がジャワを定義付けたのか(前)」(2021年11月25日)

ライター: Sengat Sengit 著者、ソロ在住、バンドゥン・マワルディ
ソース: 2017年1月23日付けコンパス紙 "Kitab yang Mendefinisi Jawa"

植民地時代、ジャワの子供たち向けに出された読本には最初、絵がなかった。ページをめ
くってもめくっても、文字ばかりが書かれていた。多分著者も出版社も、読者の理性と想
像力を刺激するための絵を見せる必要はないと思っていたのだろう。子供たちの目が有益
なモダン文字を見つめることで善しとしたのだ。

20世紀初期にはオランダ人教師や学者が書物を書いた。かれらは読本や教科書を書くこ
とに神通力を持っていた。ジャワの言語と文化に関する知識は、社会科学的調査と辞典と
いう壮大な成果を通して把握された。辞典の出現はジャワを見たこともないひとにすら、
ジャワとは何であるかということの説明能力を得た気にさせ、未知のひとに知ろしめるの
が自分の役割だと思わせた。

その原辞典はJavaansch-Nederlandsch Handwoordenboekと題する書物で、全二巻1,77
7ページから成っていた。ラテン文字(アルファベット)とジャワ文字で書かれたその書
はヘリケJFC GerickeとロルダT Roordaの共著だった。

辞典と子供向け読本によってジャワは次第に形作られて行った。1911年にLG Bertsch
の著Lajang Watjan(現代正書法ではLayang Wacan)が出版され、この書は第三刷に達した。
その書に記されたストーリーは農耕文化に彩られたジャワの田舎を特徴的に描いた話だ。
何百年も前から外国人や植民地支配者は常にジャワを農民が住む肥沃な大地というイメー
ジで標準化してきた。

その中の代表作のひとつは、ジャワ人のアイデンティティの根源としての水田に関するも
のだった。なんと驚くべきことか、ベルチュはジャワの子供たちに水田についての物語を
語ったのである。しかもジャワ語で。

Dek anoe siembok loenga menjang sawah, bebarengan karo wong akeh. Kabeh pada 
nggawa ani-ani. Nganti sedina moepoet ora pada moelih. Bareng woes ngarepake 
soeroep srengenge, simbok teka ngagawa gendongan pari. Saben dina siembok 
loenga kaja kang wis maoe, oelihe nggawa pari, lawas-lawas loemboenge sibapak 
nganti meh kebak.
母は大勢のひとたちと一緒に水田へ行った。だれもがアニアニを手に持って。母は一日中、
家に戻らなかった。戻って来たのは夕方になってからで、稲でいっぱいになっているゲン
ドガンを持って来た。同じことが毎日続き、だんだんと父の米蔵が稲でいっぱいになった。

< 女性文化 >
上の物語は、ジャワ文化の中にある女性の役割の重要性に焦点が当てられていることを示
している。水田へ行って働くことは女性が担う暮らしのひとコマなのであり、それは食の
需要を満たすためのうるわしい行為だった。水田へ行って務めを果たすことは、女性の地
位を高めることに直結していた。水田をテーマにした物語は母を食生活の鍵を握る「水田
の母」にした。父よりもずっと深く。

Perempuan Jawa: Kedudukan dan Peranannya dalam Masyarakat Abad VIII-XV (2016)と
題するティティ・スルティ・ナスティティの著作の中に、われわれは同様の情報を探すこ
とができる。チャンディボロブドゥルの壁画に見られるように、女性は男性に負けずに田
仕事を行っていたのだ。[ 続く ]