「ヌサンタラの馬車(1)」(2021年11月29日)

馬や牛に車を引かせることは、紀元前3千年ごろにインダス〜メソポタミア地方で始まっ
ていた。人間や荷物を運ぶのが最大の目的だったようだが、紀元前1千9百年ごろに戦争
の機動性を高めることを目的にして馬を使う車チャリオットが出現した。古代インドの叙
事詩ラマヤナやマハバラタにはサンスクリット語でラートrathと呼ばれるチャリオットが
登場する。

インド文化を濃く受けたヌサンタラ西部地方に馬車が伝えられたのは当然だったろう。そ
してその中にラートも含まれていたようだ。ラートより何倍も効果的な騎馬兵団による軍
事操典がもっと以前から既に一般的になっていたように思えるのだが、西暦紀元元年前後
の数百年間、インド・ペルシャ・エジプトからローマに至る一円でチャリオットは戦争の
中でどのような役割を果たしていたのだろうか?一説によれば、西暦4世紀ごろには戦場
から姿を消したと言われている。

インド文化のヌサンタラへの伝播が華やかに繰り広げられていたころに伝わったと思われ
るラートは、ジャワの諸王国の栄枯盛衰の中で維持されたように見える。西暦1034年
に作られたアイルランガ王時代のバル碑文、バメスワラ王時代の1116年制作ピカタン
碑文、ジャヤバヤ王時代の1135年の年号を持つハンタン碑文などから明らかにされて
いる当時の軍隊編成の中に、槍隊magalah、弓隊mamanah、斧隊magandiなどと並んで騎馬
部隊のmakuda、象部隊mahaliman、ラート部隊pakarapan、ラート御者隊agilinganなどの
存在を見出すことができる。


チャンディボロブドゥルの壁画の中に、女性の貴人が一頭の馬に引かれた四輪の馬車に乗
ってどこかへ向かうシーンがある。御者が馬を統御し、護衛兵の一団が馬車の周囲を警護
している。

ゴータマ・シダルタのストーリーを描いたボロブドゥル壁画の中にも、ブッダが城から外
に出て病人や死者を目にするシーンがある。ブッダは一頭が引く二輪の馬車に乗り、御者
が馬を操り、衛兵たちが付き添っている。ブッダが悟りに至るきっかけとなった老人・病
人・死者を見たのは馬車の上からだったようだ。

チャンディボロブドゥルからおよそ一世紀遅れて着工されたチャンディプランバナンにも
馬車のレリーフがある。プランバナンチャンディ群の中のチャンディナンディNandiには、
10頭の馬に引かれた車上のチャンドラ神と7頭の馬に引かれた車に乗るスルヤ神の像が
ある。

それらの古代レリーフから、昔馬車に乗っていたのは王族や貴族たちであり、また神々も
馬車に乗った姿で描かれているのだから、馬車は高貴な人間の乗り物というのが当時の常
識だったと説明されている。確かに、人間を乗せることを目的に作られた馬車に関しては
それでまちがいないのだろうが、荷物運搬用の馬車については当てはまらないような気が
する。人間用の馬車がはっきりと形を取るようになる以前は、はたしてどうだったのだろ
うか?


オランダVOCが作ったバタヴィアの街で、ヨーロッパから持ち込まれた馬車が有力な交
通機関になった。高官や婦人用の自家用乗物がメインだが、VOCという会社が接待用の
馬車を持つこともした。一般の男性は遠出の際に騎乗するのが普通だったようだ。街中の
近い場所への移動は徒歩だった。

1653年にマタラム王国の使節がバタヴィアを訪れたとき、ヨーロッパ製の豪華な馬車
が使節を出迎えてカスティルに運んだ。使節は感動したそうだ。更にその馬車で使節はV
OCの米貯蔵庫の見学に回った。VOCがバタヴィアの財力と権勢を使節に印象付け、マ
タラムがいくら敵対してもバタヴィアが容易に屈服しないことをマタラム王に報告させる
ための心理戦略だったことは明白だ。


VOC時代のバタヴィアにあるヨーロッパ製馬車のすべてがヨーロッパ人高官または会社
の所有物だった中で、18世紀になってからムラユ種族の頭領であるカピテンムラユのワ
ン・アブドゥル・バグスWan Abdul Bagusがその一台を手に入れて愛用した。かれがバタ
ヴィアで最初の、唯一のアジア人馬車所有者になったのである。
[ 続く ]