「ヌサンタラの馬車(8)」(2021年12月08日)

20世紀末の3百台を念頭に置きながら、2015年12月にコンパス紙がルポ記事の取
材を行ったとき、人口19万人のサラティガ市内で目にしたドカルの数はせいぜい数十台
でしかなかった。

そのときの取材では、ドカルを探してサラティガの街中を巡回して見たものの、あちこち
に1台2台5台とほんのわずかを見かけるだけで、馬車の姿は本当に影が薄くなっていた。
ある御者の話では、昔は一日に十回くらい客を運んだが、昨今では4回もあれば御の字で、
馬車に乗ろうという客はめったにいないそうだ。

中には馬車稼業を廃業して農業に転向した御者経験者もおり、かれは自己所有の馬車を希
望者に売り渡した。買い手は馬車稼業を行うために買ったのだろうと思っていたら、なん
と家にただ飾ってあるだけで、路上で動かす気をまったく持っていなかった。

ドカルがサラティガの街中に満ち溢れていた時代には、ドカルのベンケルが市内にたくさ
んあって、修理・メンテナンス・模様替えなども容易に行えたが、ドカルが激減した後、
市内のドカル向けベンケルはひとつまたひとつと店を閉じ、2012年には市内に一軒も
なくなってしまった。そのために、サラティガにまだ生き残っているドカルはみんなアン
バラワにあるこの地方唯一のベンケルまでドカルを持って行かなければならない。

そのアンバラワのベンケルには、スマラン・サラティガ・マグラン・トゥマングンなどか
ら遠路はるばる調子のおかしくなったドカルが集まって来る。とはいえ、総数が激減した
のだから調子の悪くなるドカルも激減し、ベンケルにやって来るのはひと月に4〜6台程
度。隆盛時には従業員を6人使っていたが、仕事が激減しては人を雇うどころでなくなる。

そのベンケルのオーナーは、今やすべての仕事を自分ひとりで行っている。しかも部品の
生産者すら食えなくなって生産をやめてしまったのだから、修理に必要な部品も自分で作
り出さなければならない。


20世紀が終わるころまで、サラティガの町ではドカルが頑張っていた。利用者が多いこ
とがドカルの頑張りを支えていたのだ。ところが、21世紀が始まるころに変化が訪れた。
オートバイオジェッの出現、競争相手のアンコッの利用者増、そしてだれもが自家用オー
トバイを容易に持てるようになったことで、市民のドカル利用の傾向は大きく減退した。
サラティガのドカルも没落の道に迷い込んでしまったのである。

市民の足としての機能を回復させることは絶望的であり、御者たちも行政もドカルを観光
馬車として生き残らせる道に邁進している。御者のひとりは昔からその方向で客にアプロ
ーチしてきたそうだ。サラティガを訪れた西洋人観光客に市内の見物をオファーして、利
用してもらっている。かれは料金タリフを決めず、客の意志にゆだねている。客が払いた
い金額を慎んで受取っているそうだ。


中部ジャワ州の誇る観光地のひとつ、ディエン高原への南からの入口にあたるウォノソボ
の町も、ドカルが重要な交通機関になっていた。2013年ごろ、主婦たちはパサルへの
買い物に依然としてドカルを使っていた。それはドカルの御者と長年にわたって顔なじみ
になり、軽口のひとつも言い合うような人間関係が育まれたことで、選択がまずそちらに
向けられるという心理のゆえもある。更にはアンコッがいくら窓を開け放っても、ドカル
の風通しの良さに太刀打ちできるわけがないこと、パサルで大量の買い物をしたとき、乗
合いだとひとり一回2千ルピアで済むから、1万ルピア払えば貸し切りで自宅まで送って
くれることなどの便利さが、主婦を相変わらずのドカル利用者にしている。アンコッもも
ちろんチャーターできるが、1万ルピアでタクシー代わりに動いてくれる者がいるはずも
ない。

ウォノソボの主婦たちはドカルを使っていますよと言うのだが、ドカルの御者たちの話は
また違う。2013年の5年前と比較して、収入はがた減りだそうだ。いくら地方都市だ
から物価が廉いと言っても、一日の稼ぎが2万からせいぜい4万ルピアではあまりにもわ
びしい。5万ルピアが得られたらファンファーレが鳴り響くにちがいあるまい。そこから
馬の餌代に1〜2万ルピアが支出される。御者の一家も食わねばならないから、結局1ル
ピアも残らない。[ 続く ]